9月24日放送

 人が幼い頃のことを話している時、ある瞬間に、“その人の核を作ってきた”大切な要素のようなものが透けて見えることがある。なぜか単純なエピソードの時ほど、大人のその人の中に生き生きと息づく子供時代の顔があたかもドラマの回想シーンのように聞き手のイメージ映像に現れる。
 今回の「ほっかいどう元気びと」でのインタビュー。収録が終わり、いつものようにさらに話を訊いていた時のこんな一言がそうだった。
 「僕は小さい時に父と一緒に寝ていたんですけど、いつでも朝目覚めて横を見るともういない。それだけ早くから働いていたんですよね」
 言葉は不思議だ。そんな何気ない一言なのだが、まだ温もりが残る空っぽの布団や、目が覚めてそれを見る子の表情が何とも言えない懐かしさや情緒的な感覚と混ざりながら映像となって浮かび上がる。・・・そうなのか、この人は物心つく頃にお父さんと寝ていたんだ。そのあったかい記憶を大切にしているのだ。お父さんは可愛くてしかたがなかったろうな・・・。インタビューで、親元を離れた後で親がやってくれていた沢山のことに気づき店を継ぐことにしたと話されていたが、その感謝は可愛がられた実感と、「自分が寝ている間に親は働いている」という記憶の積み重ねが熟成したものだったのだと想像出来て、ちょっと感動したのだった。

三浦未さん そんな話をとても素直に聞かせてくれたのは、苫小牧で人気の「マルトマ食堂」の二代目であり店長の三浦 未(いまだ)さん 38歳。父親の秀夫さんが1969年に苫小牧市公設地方卸売市場内で開業し、ホッキを使ったカレーや丼ものなど新鮮な海の幸のメニューが地元客のみならず観光客にも大人気となり、未さんは2006年から店を任され味を受け継いで今に至る。
 小学生の頃から野球を始め、高校野球に打ち込んだ未さんのなりたかったものはプロ野球選手。「店を継がないか」という父親の誘いをきっぱりと断って、野球を続けるために函館大学に進学したのだそうだ。だが、家を離れてひとりで生活をするうちに、文句も言わずにすべてを援助してくれている親へ恩返しをという思いが湧いてきたのと、外から「マルトマ食堂」の評判を見聞きして改めてすごい店なのだと気づいたことで、自分が継ごうと思ったのだと言う。大学に通いながら調理の専門学校で料理を習い、卒業後に函館で2年ほど修行ののち苫小牧にUターン。その時は茶髪にピアスの今時の若者風だった未さん。常連の漁師さん達に“料理なんか出来るのか?”とからかわれたり叱咤激励されたりしたのだそうだが、頑張るしかないと父親の味を繰り返し覚え、新しいホッキメニューも幾つも考案する中で厳しい常連さん達にも認められてきたと、はにかみながら自信も覗かせる。そして、地元の新鮮素材がすぐ手に入る環境だからこそ名物のホッキはもちろん苫小牧の味を美味しく料理して多くの人に喜んで貰いたいと語り、“実はやりたいことは足元にあった”という気づきの言葉で今の仕事のやりがいを表現してくれた。

三浦未さん 収録後に、「家を離れたことで親への感謝が湧いてきたというのは、どんな気持ちの流れでしたか?」とさらに問いかけた中で出てきたエピソードが前段の話。
 函館で初めて親元を離れて生活をしてみて、大学の学費も仕送りも買いたいものも全部親が出してくれていることや、これまでにやってくれたことなどに気づき、大学2年からは仕送りを断りアルバイトを始めたそうだが、これまでにない有り難い気持ちになったという。
 「それらはすべて、食堂の仕事をすることでやってくれていたということに気づいたんです」と。
 子供の頃は食堂の家業をちょっとばかにしていたところがあったんですが・・・と未さん。
 「でも、それは簡単な仕事で出来るものではないと思ったんです。気づくの遅いですけどね」
 親は簡単に食堂の仕事をしていたわけではなく、営業の時間以外のところで沢山努力をしていたんだということに気づけたのが大きかったのだそう。それらは、早朝、いつも空っぽの布団が繰り返し伝えてくれていたのだ。

 子供に何かを“教える”ことも勿論大事だが、何かを“感じさせる”ことの大切さを思う。感じさせるということは、行動が伴っているということ。だからこそ難しく大変なことだ。でも、だからこそ、それは、伝わった子供の後々の力に変わっていくのだろうなと思う。
 親子二代の“食堂物語”を聞かせていただいて、なぜなのか、その父と子のさりげない日常のエピソードがいつまでも心に残っていた。とても温かく、とても微笑ましく。まるでドラマのワンシーンが余韻となって残るみたいに。

(インタビュー後記 村井裕子)

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