2月26日放送

 前回2月19日の「ほっかいどう元気びと」、「お茶の玉翆園」三代目の玉木康雄さんのお話の中で、「誰もが未来に繋ぐ何かをしなくてはならない。自分の仕事や立場で何が出来るだろうかと考えることが大事」という言葉が印象に残ったとこの欄で書いた。
 「未来に繋ぐ何か」・・・百人いたら百の受け渡しがあるに違いないと想像力が膨らむが、目には見えないけれど確かなものに“食べ物の味”というものもある。
 今回のお客様は、プロの料理人。函館で1879年(明治12年)創業の老舗洋食レストラン「五島軒」の14代目総料理長に就任して1年半という山本庸子さん(50歳)にお話を伺った。

山本庸子さん 函館生まれで函館育ちという山本さん。伝統を守り続ける料理店「五島軒」へは格式が高く入ったことはなかったそうだが、お菓子作りが好きだったことから高校卒業時に「五島軒」の洋菓子販売員の就職試験を受けたという。一緒に受験した友人が採用される結果になったのだそうだが、「料理が好きなら調理補助の仕事をやってみないか」と声をかけられ、料理の道を歩き始めたということだ(仕事人生、何がきっかけになるかはわからない)。
 最初は、女性ということもあり全く数のうちに入っていなかったと山本さんは話す。重いものは持たなくていい、言われたことだけやっていればいいという空気の中で、山本さんは負けたくないと歯を食いしばりながら地道に努力を重ねていく。率先して重い鍋を持ち、先輩が作る傍でその一挙手一投足を観察し、分からないことはとことん訊いて自分のものにする。次第に、誰が何をしたいのかをいち早く察知することを覚えて先回りの準備をするなど気働きを積み重ねる。・・・そんな1日1日を大事にしながら、上の人に認めて貰いたいという一心で取り組む“下積み”はおよそ15年を費やし、前総料理長の「女性でも一生懸命頑張れば上に上がれるのだよ」という一言も大きな励みに、何より“絶対に手を抜かない”というモットーで料理人としての経験を重ねてきたという。
 そんな努力が報われ、2015年9月に女性では初の総料理長に就任。特に女性だからという気負いを見せず、「お皿の盛りつけの綺麗さや彩りなどに女性の感性が出せればと思います」と淡々と山本さんは話す。そうして、その感性や料理人の技、「五島軒」として守るべき伝統を次に受け渡す後輩達への育成については、「頭ごなしに自分の考えを押しつけるのではなく、なるべく話を聴いて、納得してから動いて貰うようにしている」とのこと。
 “総料理長”としての役目は多岐に渡り、好きな料理を作るだけではない重圧ものしかかる。ほんとうに私でいいのかというプレッシャーも感じながら日々努めていると謙虚に話してくれた。

山本庸子さん プロの料理人は、そとそもどういう思いで料理を志すのだろう。物心付く頃の食べものの記憶はどういうものなのだろう。・・・いくつかの問いかけを進めると、山本さんの口調の温度が少し高くなって、そこに根ざした温かいものが紐解かれていく。山本さんの味の思い出は母親が作ってくれた料理の数々。40年以上前ではあるが、料理に創意工夫を欠かさなかった母親の手料理は今でも嬉しい思い出として残っているのだそう。
 「特に美味しかったのはポトフ。その時代はまだポトフという呼び名が一般的ではなかったので、我が家では“洋風おでん”と呼んでいました。母が何かでレシピを覚えたのだと思います」と山本さん。玉ねぎや人参など大きく切った野菜がごろごろと入り、ベーコンとソーセージで味出しがされたその“洋風おでん”は子供心にそれはそれは美味しかったという。
 そんな料理の幸せを幼い頃から経験した山本さんは、ご両親が共働きだったこともあって小学生の頃から家族の夕飯を作り始めたそう。自分が母親に「また作ってね」と言っていた言葉を、今度は反対に家族から「また作ってね」と言われる何とも言えず嬉しい感覚。「その頃、そんなふうに言って貰えた嬉しさがずっと残っているのでしょうね」と、料理人の根っこに“誰かの喜び”が原動力になっていることを表現する。
 老舗の味を次の時代に伝承する役目を担う料理人の軸になっているのは、幼い頃の母親の味。その優しくて幸せな記憶。そして、人の役に立ったという記憶。技や経験則に加えて、そんな目に見えないプラスαが山本さんを支えているのだということが柔らかく伝わってきて、そういう記憶に裏打ちされた“女性総料理長”の料理を味わってみたいと胃袋が刺激される時間だった。

 「未来に繋ぐ何か」・・・ほんとうにそれは人それぞれ。伝統の味を次へ繋ぐためにプロとして尽力する人もいれば、家族に食べさせたいと日々台所に立ちその人ならではの味を受け渡す人もいる。“食べる”ということは、五感の記憶にも刻まれるし、もっと深いところ・・・幸せを感じる記憶の場所にも刻まれるものなのだろう。料理人・山本庸子さんの原点を聴かせていただきながら、自分自身の“食の記憶”も心地よく紐解かれていく。昭和の母というのはほんとうに家族の食事をきちんと作ってくれたもので、私の母の料理も今振り返ると最高に美味しいものだったとその味が蘇ってくる。山本さんの“洋風おでん”に触発されて思い出した母の料理は“栗ご飯”。旬の秋しか食べられない特別なごはんだったから特に懐かしいのだろう。しかも私は18歳までしか親元にいなかったので物心付いてから数十回。帰省をしたとしても秋に帰れるわけではないので、数えてみればほんとうに少ないのだが、味の記憶は鮮明だ。硬い殻も渋皮も手間暇掛けて丁寧に剥き、千切りの人参やキノコなども加え、お醤油で味付けがされた茶色い炊き込み栗ご飯。添えられるのは東北の秋の名物“いものこ汁”。母が亡くなった今、残るのはもはや味の記憶だけ。私も真似て作ってはきたが、子供がいないので繋がることのない幻の料理になっていく。
 ・・・そう思っていたが、去年、姉の娘の結婚式に出席した時のこと。その姪が母親(私の姉)への手紙に「お母さんが作ってくれる栗ご飯が好き」という子供の頃から食べていた“母親の料理”への思いを読み上げた。そうかそうか、そうなんだ・・・母の味は姉を通してそうやって次に受け継がれていた。繋がっていたのだなぁと、思いがけない気づきと感激にこっそり泣きたい気持ちになったのだった。

 大きなものから小さなものまで、社会的なものから個人的なものまで、「未来に繋ぐ何か」はその人の数だけある。それぞれの立場で繋ぐというのが大切なことなのだと改めて感じている。

(インタビュー後記 村井裕子)

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