12月25日放送

 人それぞれに、これまでを振り返って印象深い年があるのではと思う。私にとっては1979(昭和54)年がそのひとつ。北海道放送に入社し社会人としてスタートした年である。そして、初めて北海道に住み、新しい暮らしを始めた記念すべき年。雪解け3月の札幌の街の空気の感触や匂い、景色の眩しさ、食べ物の味といった五感の記憶がありありと残っているのは、やはり毎日が緊張や興奮で彩られていたからなのだろう。この1979に同じように仕事をスタートしたとか開業したなどと聞くと、同じ“時代”を共有し、そこからの1年1年を互いに生きてきたのだなあ…と勝手に感慨深い気持ちになる。

田中則之さん 「ほっかいどう元気びと」の今回のゲストは、その1979年スタートの寿都町のケーブルテレビ「テレビすっつ放送」を運営する田中則之さん 61歳。現存する道内のケーブルテレビとしては最も古いというその地域密着のテレビ局をどんなふうに町に定着させてきたのか、その思いを伺った。
 「テレビすっつ放送」を立ち上げたのは則之さんの父親である「田中電機商会」社長の田中勲千代(たけちよ)さん。北海道では1956年にテレビの放送が始まるが、山に遮られ寿都町には電波が届かない。店でテレビを売っているのに見られないのは申し訳ないと思ったのが自力でアンテナを立てケーブルテレビ局を作ろうという始まりだったという。
 息子である則之さんは、オーディオ機器に興味があったことから、札幌の工業高校、東京の専門学校と進学し、横浜のオーディオメーカーに勤めて設計の仕事に就いたのだそうだが、体調を崩したために故郷の寿都に戻ったのだそう。それが、「テレビすっつ放送」を立ち上げた翌年ということもあり、父親ひとりでこなしていた撮影や放送のための装置作りなどにも携わり、二人三脚でまちのテレビ局を切り盛りしてきたのだという。
 およそ900世帯が加入しているという「テレビすっつ放送」の一番の“見どころ”は、毎日夜7時から放送している自主放送。年間4~50件はあるという学校の行事やまちのお祭りといった地域の人達のイベントがほぼノーカットで放送されているとのこと。その撮影から放送までのすべての行程は今は則之さんひとりでこなしているが、とにかく気を配っているのは、運動会などの学校行事なら参加している子供達のすべての顔をまんべんなく撮るということ。放送局なら面白い子を追いかけて撮るのが常だが、地域のケーブルテレビとしては“全員が均等に映る”ことが最優先なのだという。それは、後々、あの時の映像を見せて欲しいといった申し出などが少なからずあるからで、地域の記録映像というのはそんな思い出の一片を提供することで、とても感動されたり、喜ばれたり、涙されたりすることが少なくないとのこと。「人を記録するということをこれまでもやってきたし、これからもそれは変わりません」と田中さんは役割を語るのだった。

田中則之さん 寿都町は江戸の時代から開かれていたという歴史の古い町。以前、この番組に出ていただいた山本竜也さんがこの町の昔を掘り起こして書いた「寿都50話」という本などで町の人達も改めて自分達の住む所を再認識したのだそうだが、その伝え継がれる歴史に加えて、町の人達が主役の映像が38年にも渡って残っているということは、かけがえのない地域の“財産”だ。人口3100人ほどの町だからこその共有財産。田中さんは、この寿都のように町の皆が主役となるテレビ局があちこちの地域に沢山出来たら良いと思いますと話されていたが、民間で立ち上げて継続するというご苦労もいろいろあったに違いない。収録後の「あなたの宝ものは何ですか?」のやりとりの中でそんな思いも少しにじみ出ていた。
 田中さんの「宝もの」は、「これまでに記録したテープ」。それが無かったら今がありませんと続け、放送開始から撮りためたテープに、デジタル化に移行してディスクとなったものを含めておよそ3000タイトルはあるでしょうと記録の数を挙げる。初期の頃は父の勲千代さんが漁の模様までも撮影していたというからまさに地域や人が時代によってどう変化してきたかが保存されている“まちのライブラリー”だ。
 ふと、父親との二人三脚はうまくいったのだろうかという思いが浮かんで、訊いてみる。
 「同じ仕事を共にすることで、親子の間でぶつかりませんでしたか?」
 田中さんは、声のトーンが一段高くなり、早口で答える。
 「とんでもない!もう、ぶつかってばかり!親子で仲がいいなんてあり得ないでしょ?もう、親子は敵ですよ(笑)」
 父親のやることにひとつひとつ反発し、自分は違うようにやるんだと思ってやってきたと言い、その親との対立があるからこそいろいろなやり方の智恵も出てきたのだと田中さんは続ける。
 「人とは違う考え方を持たないと、うちみたいなところはやっていけない。オレは、世の中が右だというと、いや左にもしかしたらいいものが転がっていると思うほうなんです」と“あまのじゃく”のやり方に胸を張る。
 「そのあたりが、お父様と似ているのでは?」と問いかけると、「そこは全く同じです」と反射的に返答。おやおや、似ているのですね・・・と思わず父と息子の一致点が浮き彫りになった瞬間に笑いがこぼれる。何かを始めることは容易いが、続けることは難しい。気骨が似ている親子だからこそ、反発し合いながらもそんなふうに他ではなかなか出来ない“まちのテレビ局”を続けてこられたのだろうと感じさせて貰った問答だった。
 その、長く続けてこられた理由をさらに言葉にして貰うと、何事もまずは3年というように、3年何とか続けられればその後はまた3年と頑張れる。そうやって続けると周りにも受け入れられて今度はやめられなくなる。そうやってここまで続いてきた・・・と田中さん。
 20代から60代へ。その年月は長いような、あっという間だったような。でも、やはり様々なことがあり、喜んだり歯をくいしばったりのひと色ではない日々の積み重ねがそれぞれにあるのだなぁとしみじみ思う。同じ時代を駆けてきた者として、改めてひとりひとりの歳月が織りなす悲喜こもごもという機微に思いを馳せてみたのだった。

 そんなふうに瞬く間に時が過ぎ、2016年もあと僅か。あちらこちらで「よいお年を」という言葉が飛び交う年の瀬だ。1年はほんとうにあっという間という感覚は年々増していくが、その一方で年を重ねるのもいいものだなぁと益々感じている。その、「よい年だった」かどうか、「よい年にする」かどうかというのは“自分の心ひとつなのだという法則”が確信出来るようになってきたからである。人が生きていく上で色々あるのは常であり、その出来事を自分の心がどう捉えるかによって「良い、悪い」に振り分けられる。たとえ悲しい別れがあろうとも辛い転機があろうとも、「〇〇があったからこそ」と気持ちの転換が出来、すべてを「良し」と受け入れられる心を持つことこそが自分も周りも幸せにするのではないかと感じている。多くの方々に“人の中の力”についてインタビューしているうちに、そういうことを信じられるようになっているのだ。
 だから、「この1年も有難う」と感謝の気持ちで締め括り、そして、そんなやわらかな気持ちや言葉が響き合うことで平和な時が続いていくことを心から願おうと思う。

(インタビュー後記 村井裕子)

 この1年もHBCラジオ「ほっかいどう元気びと」を聴いてくださり、そして、この「インタビュー後記」を読んでくださり有難うございました。番組に温かなメッセージやご意見も沢山いただき心からお礼を申し上げます。番組内でご紹介はしていませんが、いつもおひとりおひとりのメッセージに励まされ、番組作りの参考にさせていただいております。
 2017年もどうぞよろしくお願いいたします。
 新春1月1日の放送は、2016年にJ2優勝、J1復帰を果たした「北海道コンサドーレ札幌」監督の四方田修平さんがゲストです。お楽しみに!

HBC TOPRadio TOP▲UP