3月6日放送

 前回の「ほっかいどう元気びと」のインタビュー後記で、ビジネスも人間関係構築も「個別対応」が大切・・・といった内容を書いた。「みんなが」という考え方や既成の方法にとらわれ、型にはめてすべてをひとつに括るのではなく、ひとりひとりの違いを把握して向き合い、その思いに応える。そのためには「相手の立場に立つ」ことが欠かせないと。
 その後さらに考えを深めていて、こんなことがふと思い浮かんだ。何かの物事に向き合う時に、その「対処の仕方」や「選択」についても、みんな違ってみんないい・・・その「個別の対応」も認められなければならない、と。
 例えば、親の介護。遠く離れた老親を自分の居場所に呼び寄せるのか、自分が帰るのか。身体が不自由になったら施設を探すのか、在宅で考えるのか。仕事をどう続けるのか、どう兄弟姉妹で分担するのか。・・・大事なのは、その物事(或いは人)から逃げず、向き合うことであり、それそれの選択はまさに「個別」のもの。Aさんの選択はAさんにとっての方法であり、それをBさんに当てはめることは出来ないし、誰かがそれに対して非難や批評など出来るはずもない。どちらかが「正解」など誰にもジャッジは出来ないのだ。

長尾英次さん 子育て、結婚の形、老後の生き方・・・すべて当てはまると思うが、例えば、これが、突発的な大災害の場合、もっと重く、深く、その「個別の」選択や決断が求められるのだろう。
 そのひとりひとりの「個別の対応」を受け入れ、後押しするために私達は何が出来るのだろう?果たして世の中は、そういう人達を支えることが出来ているのだろうか?
  今回、3月6日放送のゲストにお話を伺っていて、改めてそういったことに思いを馳せた。
 札幌のスタジオに来ていただいたのは、旭川の買い物公園に2015年12月、チーズ工房兼店舗として「Japacheese Asahikawa」をオープンさせた長尾英次さん 43歳。2011年3月11日に宮城県で震災に遭い、3年間の葛藤の末に妻の出身地旭川に移住する決心をし、長年の経験を生かしてチーズ作りに奮闘されている。
 長尾さんのご実家は、宮城県の蔵王町で祖父の代から酪農業を営む一家。長尾さんは、中学を卒業後に北海道江別市の「酪農学園大学付属高校」(現在の「とわの森三愛高校」)から大学へ進み、Uターンをして「蔵王酪農センター」に就職。環境も人も申し分なく、結婚をし子供にも恵まれ、マイホームを手に入れる。誰しもがそうであるように、「そのままの人生が続いていく」と思っていた5年前の3月11日、長尾さんは宮城県の自宅で被災。妻が長男を連れて旭川に帰り無事に次男を出産した約2週間後のことで、長尾さんが旭川から宮城に戻って5日後のことだったという。
 それからというもの、夫婦の間で「泥仕合」のようなやりとりが続いたのだと言う。夫は「戻ってほしい」、幼い子供への放射能の影響を心配する妻は「戻らない」の押し問答の日々。夫のバックボーンには、「仕事」「仲間」「お客様」「親」そして「故郷」という断ち切れない根があり、だからこそ周りの誰にも心を割って話せない孤独が闇となって心に襲いかかる。
 職場では無理に口角を上げて明るさを装い、実家の親に「これからどうするつもりだ?」と聞かれては虚勢を張り、何倍もの疲れがどっと押し寄せる。そんな疲弊した気持ちにさらに追い打ちをかけるのは、食品関係の仕事の自分が北海道に行ったら「宮城はやはり危険なのだ」と思われてしまうのではないか、育てて貰った故郷や会社に対してそんなことが出来るのかという罪悪感。そもそも、自分の住む宮城県の放射能の危険はほんとうはどうなのかすら分からなくなり、職場から家にひとり帰っては、皆がいるはずだったリビングの隣のパソコンスペースで夕食をとり、お酒をあおりながらネットで毎夜情報を調べ、酔いつぶれてそのままそこで眠るという毎日を送る。
 布団で眠った記憶はもう何年も無く、「その時はほとんどやさぐれていました」と長尾さん。初対面でも実直さと誠実さが伝わってくるこの東北の心優しき人が、「やさぐれ」ざるを得なかった環境や事情を思うと、胸が詰まる。そして、「心はもう壊れていた」けれど、危ない方に振り切れる一歩手前で「家族と自分の人生を優先して何が悪いのか」と開き直り、妻子と共に旭川で生きようと決心が出来たという。震災から3年経った2014年のこと。
長尾英次さん この頃は「やさぐれた」気持ちで疲れ果て、北海道なら木材関連の仕事もあるし、薪割りが得意な俺はこれからチェーンソーを振り回して生きていくんだ・・・などと冗談半分で言っていたそうだが、そんな長尾さんに蔵王の人達がみんな怒って言ってくれたのだそう。
 「なぜ、これまで18年培った経験を生かさないのだ!チーズ作りをしないなんてもったいないじゃないか」
 その言葉で、長尾さんは、自分の経験を改めて「強み」として思い出すことが出来、さらにチーズ作りの師匠からも「公明正大に宣言したら、きっとみんな助けてくれるから」と言われ、新天地で自分らしい一歩を踏み出す力が奮い起こされたのだという。
 「聞かせていただく」気持ちで一言一言噛みしめていた私の涙腺がその言葉で一気に緩む。人の人生があの大震災で大きく変わらざるをえなかったという「辛さ」や「葛藤」を想像して心が締め付けられたのもあるが、それにも増して、故郷の人達が掛けてくれた言葉の温かさに心を持って行かれた。皆が被災者なのに、自分たちも辛いのに、そんなふうに人の良さを認め、背中を押してあげられる人としての優しさ、強さ、その尊さに敬服する。
 そして、「家族と自分の幸せを選択する」という当たり前のことすらああいう震災の後には難しいのだという人の哀しい徳性を思う。想像以上の被害に遭うと人は感じてしまう。もっと大変な人がいる、自分ばかりがいい思いは出来ない、新しい行動を起こすことは周りを裏切ることになるのではないか。・・・心が壊れそうになっているにもかかわらず、自分の心を助けるのを後回しにしてしまったりするのが、人なのだ。
 未だ、被災地から北海道に自主避難している人は約2000人。その数の背景には離れ離れになっている家族もいるという視点も大事だろう。被災地に残された単身の夫の孤独感はあまり世間に認識されていないため益々疲弊していくと長尾さんも話されていたが、誰かに気兼ねしたり周りを優先したりするあまりに大事なものを見失わないように、優しい人の心が置き去りになってしまわないように、「家族と自分の人生を第一に選択」することが出来るような環境作りや周りの後押しもこれから更に必要になっていくとつくづく思う。
 ひとりひとりが選択する、それぞれの人生。何処に住み、何をして生きるのがいいかなど答えは一つではない。ましてや、被災後に選ぶ難しすぎる分岐点。今回は長尾さんの場合を聞かせていただいたが、「旭川でご縁を感じる出会いにも恵まれ、周りの人も温かい。ここでは全く嫌な思いをしていないのです」と語る言葉にともかくも救われる思いがした。

 「ほっかいどう元気びと」は、2011年4月にスタートしたということもあり、毎年3月には東日本大震災にまつわる方々にお話を伺っている。そのおひとりおひとりから毎回大切なことを気づかせていただいているが、今回、長尾さんが締めくくりに話してくれた言葉からも、この震災に対して私達皆が心の中で薄れさせてはいけないことを改めて思い出させていただいた。
 「困難があっても、人は尚も前に進んでいかなくてはならない。長尾さんは、そのためにどんな気持ちが大切だと思いますか?」という問いへの答え。
 「それは、謙虚であるということ。特に、3.11は自分だけでなく人間全体が自然の脅威を痛切に感じたと思う。それも全部含めて考えると、やはり、謙虚さが足りなかったのではないか。暮らし方にしても、『足るを知る』という謙虚さが必要なのかなと思います」
 5年前、この国に住む私達は未曾有の大地震と大津波、そして、想定外の原発事故にも遭遇し、「謙虚に生きる意味」をひとりひとり強く感じたはず。暮らしは、生き方は、国のあり方や進む道はこれでいいのか、ほんとうに大切なものは何か・・・と。
 人は、「忘れる」ことが出来るから、災害で悲しく辛い思いをした人達も1日1日を何とか踏みしめることで明日を迎えることが出来る。しかし、一方で、「忘れていってはいけないこと」がある。それを、やはり、しつこくしつこく確認しあっていかなければならない時代に私達は生きているのだ、と改めて思う。

(インタビュー後記 村井裕子)

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