ほっかいどう元気びと

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2019年3月10日のゲスト

桑添 達也さん
出張専門「極楽寿司」 寿司職人
桑添達也さん

仙台市出身 47歳。
実家は寿司屋で、自身も地元の中学を卒業後上京し、目黒の寿司屋で15年程修業を続ける。
30代で仙台に戻り、いずれは実家を継ごうと他の店で働いていたが、2011年3月 東日本大震災が発生。父親の店が半壊したことから再建をあきらめ、翌年札幌の給食会社に就職。そこで妻の野の子さんと出会い結婚。野の子さんの故郷新得町へと移り住み、2016年から店舗をもたない出張専門「極楽寿司」をはじめる。

村井裕子のインタビュー後記

桑添達也さん 古いことわざで、「人生というものは、あなたが別の計画を練っているあいだに起きる」というものがある。今回の『ほっかいどう元気びと』でインタビューしていて、久々にその言葉を思い出した。
 お客様は、十勝の新得町で店舗を持たない出張専門のお寿司屋さん「極楽寿司」を営む桑添達也さん 47歳。東北は仙台市出身の桑添さんは、実家の寿司店を継ぐため中学卒業と同時に東京の寿司店に住み込み、修行を開始。地元に戻ってからも他の店で経験を重ねていたところ、2011年3月11日、東日本大震災が発生。実家の店も被災したことから札幌の会社に就職。その後、伴侶と出会ったことで新得に移住。そうして、様々な巡り合わせを経験するなかで一度はあきらめかけた寿司職人としての仕事を再開。紆余曲折を経ながらも、自分の本来の仕事で多くの人達に喜んでもらえているという。
 8年前の東北の震災後、生活を、人生を大きく変えることを余儀なくされた人は少なくない。北海道に新天地を求めた人達のこの8年はどういうものだったろう。例えば、そんなひとりである桑添さんが震災後に辿った道を聞かせていただくと、様々な感慨が湧いてくる。
 震災で半壊した父親の寿司店の再建は叶わず、寿司職人を続けることも難しいと判断した桑添さんが就職したのは札幌の給食会社。そこで出会って結婚することになる女性が新得町出身だったことで、やがて夫婦で新得に移住。義父の畑作農家を手伝ううちに、寿司職人なら来て握ってくれないかと地元の牧場オーナーに頼まれて50人ほどの従業員達に振る舞ったことから口コミで広まり評判に。「せっかくここまで修行してやっていた寿司職人をやめるのはもったいない。やれるだけやってみたらいい」という義父の言葉に背中を押されて“出張寿司”を仕事にするようになったとのこと。
 思いもかけぬ出来事に向き合い、やむにやまれずひとつずつ置いていった「点」が、振り返ると不思議な「線」になっている。それも、まるで誰かが予め“計画”したような「線」。持てる力を最大限発揮できるようにと、誰かが延ばしていったような、目には見えない「線」。

 目の前に座る桑添さんは、寿司職人という仕事が長い間に磨き込んだのであろう清潔そうな笑顔で、素直に思いを語る。
 「こっち来て、もう寿司職人はやれないと思ってたから、なんか不思議だよね」
 優しい口調に東北訛りが混じって、それがまた親しみを増す。出張専門寿司屋さんというのは、呼ばれた家庭に寿司を振る舞う準備をすべて整えて出掛けていくお寿司屋さん。誕生日や記念日などのお祝い事が多く、目の前で握る寿司は準備の段階から小さな子供達やお年寄りにも大好評なのだという。
 収録では、そんなふうに何かの“流れ”のように仙台から札幌、札幌から新得へ移り住み、寿司職人としての道に何とか再び辿り着けたということを自然体で話されていたが、それまでの日々はけっして簡単なものではなかったに違いないと想像すると、その、時に淡々と、時に明るく話すひとつひとつの言葉が胸に迫ってくる。
 お話を聞いていく前半で私の胸が熱くなったのは、新得で暮らすようになってから牧場オーナーに声を掛けられて寿司を握りに行き、皆にとても喜ばれたという話のあたりから。(自分が培った仕事で久々に喜んでもらえたという実感はどれほど嬉しいものだったろう・・・) そして、それが口コミのように繋がっていったということ。(「うちにも来て欲しい」という誘いは職人としてどんなに幸せな言葉だったろう・・・) そして、義父から「職人をやめるのはもったいない。店を構えなくてもやれるのではないか」と声を掛けてもらったということ。(自分が好きで技を磨いてきた一生の仕事。震災がそれを奪った苦悩。その行き場のない悔しさと苦しさ。それでも尚、違う道で働き、生きていこうとする決心。そうして、逆境と向き合い自分の仕事を取り戻したいという深層の思いを抱えるなかで、「やってみればいい」という一言は一番掛けてもらいたかった言葉ではなかったか・・・) そんなふうにあれこれ想像して胸が震えたのだ。
 体験者ではない者が簡単に同情をしてしまうこと、わかりますと理解したように反応してしまうことは避けなければならないと強く思う。だが、共感はできる。強い精神の持ち主などこの世に何人いるだろう。弱いものを互いに抱えながら、共感して、寄り添う気持ちを持ち寄れば人の心はわずかでも救われるのではなかろうか・・・最近そんなことをよく思う。
 そして、後半、それまで淡々と楽しそうに話していた桑添さんご自身が言葉に詰まってしまったのが、3月11日、その日に思いを馳せたとき。8年が経つ今でも、振り返って思い出すとほんとうに辛い出来事だったと涙をこらえていた。思い出したくないけれど、ぜったい忘れてはいけないのだ、とも。
 そういう思いにも、絶句にも、未だに忘れられないという切ない嗚咽にも、私達は寄り添うしかないと改めて思う。未曾有の大災害だった2011年3月11日。あの日の前と後では、人の価値観や人生観は変わらざるを得ないということを私達は突きつけられた。そして、人の手ではどうしようもない自然災害は、北海道胆振東部地震も含めてその後もあちこちで起こっている。

桑添達也さん 桑添さんは、「あの日を境に、生き方は変わった」と明言する。それは、「あきらめないということ」と表現。最後まであきらめないことだね、と。桑添さんが本来想定していた未来は、やってこなかった。一生これでやっていくと努力を積み重ねていた仕事も中断した。だけど、全く想像していなかった場所で、人に支えられ、培った力を発揮し、周りに喜ばれている。それは、何か大切なことを“あきらめなかった”からか。人生は、だから、不思議。
 収録後、「地元ではなく札幌の給食会社に決めたのは、父親が自分の人生だから好きなことをやれと言ってくれたから」と、父親のそんな一言が今のこの道に繋がる始まりだったということも話されていて、親と子双方の心情にも思わず涙。
 今、桑添さんが北海道で頑張っているということは、故郷仙台の人達をも勇気づけることに繋がっている。そして、北海道の私達も桑添さんのような人の頑張りに触れることで、被災地東北に思いを馳せることができる。そんなふうに、東北と北海道、思いを寄せ合うことでさらに心の復興が進みますように。・・・それが、桑添さんのお話を聞いて湧き上がってきた9年目を迎える彼の地に寄せる祈りの思いだった。

 「人生というものは、あなたが別の計画を練っているあいだに起きる」・・・大きなことから小さなことまで、そんなことの連続かもしれない。だからこそ、最期の最期を迎える時に、“それでも、なお、いいものだった”としみじみ感じたいと思う。
 どこで、誰と生きているかの“縁”というものは考えれば考えるほど不思議だ。意志を持って自分で選んでいるというのは錯覚で、大きな流れに身を任せているとしか思えない時がある。今、住んでいる街を歩く時、私自身、例えば大通からHBCへの見慣れた道を歩いている時など、なぜ自分は今ここにいるのだろうかと、ふっと不思議な気持ちが降りてくる時がある。自分でここに住むと決めてやって来た土地なのに、実は自分で選んだようで、自分で選んではいないような実感がどんどん強くなる。住む場所も、働く場所も、一生を共にするパートナーも、その後の道のりも、出会うすべての人達も。不思議な“導かれ感”。・・・
 誰の導きなのかは分かるはずもないが、あてがわれた場所で、とにかく精一杯力を注ぎ、誠意を尽くし、縁ある人達と楽しく日々を過ごすこと。そんなシンプルなことを続ける中に、生きる意味は隠れているような気がしている。

(インタビュー後記 村井裕子)

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