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「ここで寝たら死ぬ」約150キロの命がけの母子逃避行 終戦後も続いたソ連軍の樺太侵攻 戦争が刻んだ悲惨な記憶【戦後80年北海道と戦争】

2025年08月12日(火) 19時00分 更新

 第2次世界大戦中の1945年8月11日、日本領だった樺太、いまのサハリンにソビエト軍が侵攻し、終戦した8月15日以降も戦闘が続きました。ソビエト軍の攻撃から逃れようと約150キロを歩き続けた「戦争」の記憶です。

■「よく歩いた子どもの足で…」

7月24日。旧樺太の出身者が札幌に集まりました。

リニューアルオープンを翌日に控えた、道庁赤れんが庁舎の見学のためです。

そのなかのひとり、原田廣記さん88歳です。



・原田廣記さん(88)
「恵須取、あった、ここから歩いてずっと逃げて逃げて…『久春内まできたら汽車に乗れるぞ』と言ってここまで歩いた、よく歩いた、子どもの足で…」

思い出すのは、照りつける太陽の下を必死に逃げた、80年前の夏です。

原田さんが生まれたのは、北海道の北、いまのロシア・サハリン州。

かつては樺太と呼ばれ、北緯50度より南は日本領で、約40万人が暮らしていました。

原田さん家族が住んでいたのは、ソビエトの国境から100キロほど南の恵須取(えすとる)というマチでした。



原田廣記さん(88)
「ずいぶん石炭は採れたし、魚も手づかみで取れた、ニシンなんかもね。懐かしいね」

■1945年8月9日ソビエトは日ソ中立条約を破棄

平和な日々は、戦争で一変します。

1945年8月9日、ソビエトは日ソ中立条約を破棄。

国境線を越えて南樺太に侵攻し、激しい地上戦となりました。



原田廣記さん(88)
「あの年はね、きょうみたいなこんな暑い日照りが続いてね。8月10日からロシア(ソビエト)の飛行機が飛んできた。危険だから逃げるという話になってね」

原田さんの母・カネさんは、原田さんと末の弟を連れ、親戚のいる函館に避難することにしました。

鉄道が走る村まで、約150キロの道のり。歩いて向かうしかありません。

避難する人たちの行列を、ソビエト軍の戦闘機が襲います。



原田廣記さん(88)
「僕らはちょうど馬車の陰に隠れていて、(ソビエトの戦闘機に)ババババって撃たれたんだけど、端の人がね、直撃されたんだろうね、僕らは子どもだったから陰に隠れていたんだけど、端の人が「うーっ」って言ってばたんと倒れてそれっきり動かなかった。その当時の何かが体の中に染みついてしまっている、(いまも)飛行機の音を聞くと「逃げなきゃ」「隠れなきゃならない」と思う」

■足に血マメ、飢えと疲れで立ち止まる子ども「寝たら死ぬ」母は言い聞かせた

8月15日。日本は無条件降伏を表明。しかし、ソビエト軍の攻撃は終わりませんでした。

8月20日、南部の港町・真岡に上陸。

22日には、樺太の中心都市・豊原を空爆。

戦死した住民は、攻撃を受けた疎開船も含めると4000人以上に上るとされています。

日本が降伏したあとも、原田さんたちの避難は続きました。

足に血マメができ、飢えと疲れで立ち止まる子どもたち。

「ここで寝たら死ぬ」

母・カネさんは、こう言い聞かせ、体を紐で結んで引きずるように歩き続けました。

原田廣記さん(88)
「逃げて歩いている最中はいろいろありましたよ。(女性が)もう気が狂ったようになって、赤ちゃんを投げた(捨てた)。あれは悲惨だね。うちの親も投げないで(自分を捨てないで)くれたから生きて帰ってこられたけれど、立場が変われば投げられたかもわからない」



8月22日。まもなく鉄道の走る村にたどり着こうというところで、原田さんたちは、軍人から終戦を知らされ、引き返すよう指示されました。



その後は、ソビエトに占領された恵須取で暮らし、終戦から2年後、ようやく函館に引き揚げました。

■戦争体験は「二度とさせない」

60代でノルディックウォーキングを始めた原田さん。

いまは週3回、3キロの道のりを歩いています。

ノルディックウォーキング参加者
「(知人と)たまにカラオケに行くの」

原田廣記さん(88)
「ははは、そうかい」

戦後80年。樺太で生まれ育った仲間はずいぶん少なくなりました。



旧樺太出身者
「このメンバーなの、ファックスがね言うこと聞かなくて」

原田廣記さん(88)
「ああそうか、これだけしかいなくなっちゃったかな」

以前は、赤れんが庁舎の2階に樺太の資料室がありましたが、リニューアルに伴い、資料室は地下に移されました。

旧樺太出身者
「ロシアの兵隊に会ったと日本の兵隊に言ったら、慌てて逃げて行った」
「(当時は)パニックになって連絡がとれないんだろうね」



原田廣記さん(88)
「戦争の体験、自分の足と体で逃げたのを身を持って覚えている、こんな大変なことはない、いまの子どもたちにさせちゃいけないよ、本当にみじめ」

子どもたちに自分と同じ経験をさせないために。原田さんは、平和を願い続けます。

北海道ニュース24