「勉強するために入ったのに…戦争は嫌だね」学徒勤労動員で24時間3交代勤務の鉱山へ 過酷労働の中で15歳が日誌に綴った“地獄”の二文字 目の前では札幌空襲も
2025年05月10日(土) 08時30分 更新
終戦1か月前、札幌も激しい空襲の標的となりました。その空襲を目の当たりにした当時15歳だった男性は、学ぶ機会を奪われ、札幌の鉱山での過酷な労働の日々を強いられました。
■《15歳の少年が見た札幌空襲と、過酷労働の現場》
このマチが “軽川(がるがわ)”と呼ばれていた、終戦1か月前の7月14日と15日。激しい空襲が、現在のJR手稲駅周辺に襲いかかりました。
小山田碩さん(96)
「戦闘機が来て、ババババって撃ったんですよ。(現在の手稲駅前にあった)製油所に当たって、バーて火が上がって、うわー、本当に恐ろしいものだなと思った」
小山田碩(おやまだ・せき)さん、96歳。15歳のときに、札幌空襲を目の当たりにしました。
小山田碩さん(96)
「すっかり住宅になっちゃった」
札幌市手稲区の住宅街。小山田さんは当時、近くにあった『手稲鉱山』で、過酷な労働の日々を強いられました。
『手稲鉱山』は、1935(昭和10)年に採掘が始まり、1971(昭和46)年に閉山しました。鉱山から金属成分を取り出す“選鉱場”は、東洋一の規模と言われ、最盛期には1.6トンもの“金”を生産していました。
戦時中は2千を超える人が働き、小山田さんも、その一人でした。
小山田碩さん(96)
「(手稲鉱山では)銅が取れるんです。使い道が豊富で、増産したんだと思います。銅は、機関銃の部品や鉄砲の部品に使われたのではないか」
■《学ぶ機会を奪った戦時下の労働力不足…“地獄”と綴った日誌》
当時、旧制札幌一中の生徒だった小山田さん。1945(昭和20)年1月に、級友53人と、真冬の手稲鉱山に駆り出されました。『学徒勤労動員』です。
極端な労働力不足を補うため、国は 国民学校初等科(現在の中学1年生に相当)以上の若者を工場や農村へ送り、強制的に労働させたのです。
小山田さんが大切に保管してきたノートがあります。表紙には『生徒日誌』とあります。学徒勤労動員の生徒は、毎日欠かさず書くように指示されていたと言います。そこに、手稲鉱山での過酷な日々を、詳しく書き残していました。
小山田碩さん(96)
「5人と一緒に“浮選”というところに配属されました。鉱石の中から金属を選び出すんですね。もう嫌になるくらい使う薬が臭くて…」
銅の増産のため、手稲鉱山は、24時間3交代制で稼働していました。15歳だった小山田さんも、早朝から夕方までの“一番方”に入り、深夜労働も強いられたと話します。
小山田さんは、連日の過酷な労働について、生徒日誌には『地獄』と綴っていました。
小山田碩さん(96)
「ベルトが切れると、作業が止まっちゃうでしょ。当時、鉱山といえども、 そうした大事なベルトが無いんですよ。それなのに、鉱山の上司から叱られるんですよ…。 “なんで用意していなかったのか”って…。戦争に負ける兆候ですね」
そうした敗戦への予感は、少年たちの中で、確信へと変わっていくことになります。
■《終戦1か月前の北海道空襲…手稲鉱山も標的に》
1945(昭和20)年6月に撮影された札幌市内の写真です。アメリカ軍の偵察機によって、札幌飛行場や、苗穂の国鉄工場などが、密かに撮影されていました。
そして、7月14日と15日の2日間にわたって、札幌をはじめ、北海道各地が空襲の標的となったのです。手稲では、駅前にあった製油所が爆撃を受け、施設が炎上し、手稲鉱山も狙われました。
小山田碩さん(96)
「手稲鉱山は、大事な工場と思われていたのでしょうね。迎撃の飛行機は1台も飛ばなかった。すぐにそばにあるのに。もうその時は、ダメだったんだね」
小山田さんは、空襲の1か月後、それまでの万年筆ではなく、鉛筆で『生徒日誌』に、8月15日について、こう綴っていました。
小山田碩さん(96)
「8月15日水曜日 小雨。正午からの玉音放送を聴く。雑音が多く、難解の詔勅。先生の解説により、日本が戦いに敗れたことが分かり、その無念さに一同、首を垂れ、涙に暮れた」
■《戦後は教育者の道へ…子供たちへ語り継ぐ“戦争の愚かさ”》
終戦後、小山田さんは、教育者の道を歩み、札幌市内の小学校の校長を務めました。この日、訪れたのは、札幌市立手稲西小学校。かつて“手稲鉱山特別教授場”があった場所です。
この小学校の一角には、児童らが地元の歴史を学ぶ、『鉱山のへや』というスペースが設けられています。
小山田碩さん(96)
「勤労動員といってね 中学生なのに鉱山で働いて…8か月も」
児童
「えっ?やばっ!」
小学6年生
「中学生から働いているから、それもすごくひどいなと思います」
小学6年生
「戦争のために日本の資源を使うのは違うなと思う」
小山田碩さん(96)
「そうだね、戦争は嫌だね…」
1995年、戦後50年の節目に、小山田さんは、旧制札幌一中の級友と共に、それぞれ『生徒日誌』を持ち寄り、一冊の本にまとめました。
小山田碩さん(96)
「勉強するために“一中”に入ったのに、勉強ができなかったこと。記録に残して、後世の人も、これを読んでもらえれば、戦争がいかに下らないかということは、分かってもらえるんじゃないかと」
戦争に翻弄された悔しい青春を、子どもたちに経験させたくない。小山田さんと同じように、学徒勤労動員で、学ぶ機会を奪われた若者たちは、全国で340万人に上るとされています。
堀内大輝キャスター)
終戦1か月前の1945年7月14日と15日の2日間、札幌をはじめ、北海道各地が空襲に見舞われて、およそ3000人もの犠牲者が出ています。
森田絹子キャスター)
戦後80年になり、戦争の悲惨さや被害の実態を示す公的な記録や資料は、もちろん後世に引き継いでいく大切なものです。
それと同時に、小山田さんのように、どう戦時下を過ごしたのかという証言や肉筆の日誌などは、いかに個人の暮らしを戦争が奪っていくのか…、その理不尽さを生々しく伝えるものだと思います。
堀内大輝キャスター)
学徒勤労動員では、当時の国民学校初等科…現在の中学1年生以上の生徒や学生が、工場や農村へ送られましたが、10歳、11歳といった子供も労働を強いられたという証言もあります。
森田絹子キャスター)
今回取材した小山田碩さんが、旧制札幌一中の級友らとまとめた記録集『激動の我等が青春』は、札幌市中央図書館で読むことができます。特集でした。