あふれる野球愛で北海道のファンも魅了 ミスタープロ野球…長嶋茂雄さん逝く 北海道民の心に深く刻まれたミスターの足跡
2025年06月03日(火) 18時49分 更新

踊るかのように華麗な送球。
帽子を飛ばして、豪快な空振り。
「三振しても絵になる」と称えられた「ミスタープロ野球」元巨人の長嶋茂雄さんが、3日朝、亡くなりました。
北海道内ともゆかりが深い長嶋さんの死去を多くの人が惜しみました。
札幌では、長嶋さんの訃報を伝える号外が配られました。
60代男性
「小学生にとっては神様みたいな人。大スターっていっぱいいますけど、あの人は別格で」
60代女性
「ご病気になられてからあんまりテレビに出なくなって、寂しいなと思っていた。やっぱりひとつの時代が終わるかなって」
長嶋さんは1958年に読売巨人軍に入団。
躍動感あふれるプレーに国民が熱狂しました。
長嶋さんの人気を象徴するシーンが、HBCのニュース映像に残っていました。
1958年、札幌市の中島公園です。
野球をする少年たちは、全員「背番号3」。
北海道の子どもたちの憧れでした。
円山球場では、毎年のように巨人戦が開催され、大勢のファンが詰めかけました。
堀内大輝キャスター
「ファイターズの移転前、北海道の野球ファンを沸かせていたのは巨人戦でした。長嶋さんもここでプレーをしてサードを守り、沢山のファンを沸かせていたということですね」
とも恵寿し 田尻義晴さん
「プロ野球を生で見たのが巨人戦の円山球場なので、円山の野球は3日間、必ず行ってました」
こう思い出を語るのは、ファン歴65年以上、札幌・白石区にある、とも恵寿しの田尻義晴(たじり・よしはる)さんです。
店内には、見渡す限りに、選手のサインやポスターが。
巨人戦の観戦で、たくさんのファンが集います。
常に全力でプレーする長嶋さんに、勇気づけられてきた田尻さん。
とも恵寿司 田尻義晴さん
「私は長嶋さんを命と思って生きてきたので、本当に突然で、どうすんだって言われたらどうするんだべって。天国に行って今度は野球の神様になって、そういうところを見れるかな、見れないかな」
HBCの番組「今日ドキッ!」のコメンテーターで元フィギュアスケート選手の渡部絵美(わたなべ・えみ)さんは、1984年のロサンゼルスオリンピックで、長嶋さんと開会式の解説を務めました。
元フィギュアスケート選手・渡部絵美さん
「今でも一生の思い出になります。すごい人なんだけどいつもおもしろいコメントを飛ばしたりとか…。皆さんへの気遣いもとってもすばらしかったな」
生前の長嶋茂雄さん
「大振りしない!普通に構えて、小さめにコンパクトに小さい振りをするんだね」
長嶋さんは、巨人の監督になったあとも頻繁に道内を訪れて、子どもたちに野球の楽しさを伝えていました。
一方で、選手にはプレーだけでなく、オフの過ごし方まで徹底的に指導しました。
北広島市の星槎道都大学で、硬式野球部の監督を務める二宮至(にのみや・いたる)さんも、その熱い指導を受けたひとりです。
星槎道都大 硬式野球部 二宮至監督
「自分がプロに入ったのも長嶋監督に誘っていただいたから。恩師を亡くしたようなものです」
長嶋監督に誘われて、巨人に入団し、厳しい指導で有名な「地獄の伊東キャンプ」に参加しました。叩き込まれたのは、プロとしての誇りです。
星槎道都大 硬式野球部 二宮至監督
「やっぱり凡ミスですよね。満員のファンの中で野球をやるので、ファンを失望させるようなプレーはすごく怒られました」
プロゴルフ、セガサミーカップの大会名誉会長を務め、道内スポーツの発展にも貢献した長嶋さん。
ファンを愛し、ファンに愛された人生でした。
堀啓知キャスター)「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれました、日本のプロ野球界に大きな大きな足跡を残しました長嶋茂雄さん。
2日朝、肺炎のため亡くなりました。
89歳でした。
堀内大輝キャスター)長嶋さんの訃報を受けまして、北海道日本ハムファイターズの新庄剛志監督、そして栗山英樹チーフ・ベースボール・オフィサーがコメントを発表しました。
新庄剛志監督
「長嶋さんは野球界のレジェンドであり、野球の愉しさや醍醐味を多くのファンに伝えてくださった方だと思います。(中略)心よりご冥福をお祈りいたします」
栗山英樹チーフ・ベースボール・オフィサー
「WBCのときに授かったメッセージは、強く記憶に残っています。『野球というスポーツがこれから先も長く続くように一生懸命やってください』と託されました。(中略)本当に残念で悔しいですが、長嶋さんの思いを少しでも体現できるように、我々はこれからも全力を尽くしていきます」
堀啓知キャスター)おそらく(長嶋さんは)相当いろんな方に影響を与えた方ですよね。
小橋亜樹さん)そうですね。同じ時代を生きて、学べて、言葉を頂いて。旅立たれた今、これはかけがえのない塊となって、各々の、皆さんの心で輝き続けていくと思います。長嶋さんのこと嫌いだという人、聞いたことはないですよね。
堀啓知キャスター)そうですね、みんなが愛した存在だったと思います。
選手のときはもちろん、タレント活動や解説活動されていたとき、その後の第二次監督の時代…いろんな時代の長嶋さんがいるので、皆さんきっと印象に残っていると思います。
ジャイアンツは北海道で公式戦を行うことも多かったので、長嶋さんの足跡も道内に残されているんですよね。
堀内大輝キャスター)そうなんです。1958年から1974年まで、現役時代、巨人は公式戦を初夏の北海道で毎年行っていて、夏の風物詩になっていました。
札幌の円山球場や北海道函館市の千代台公園野球場などで行われて、活躍をしました。
札幌開催のときには手稲オリンピアでプールやジンギスカンを楽しむこともあったようです。
現役を引退した後は札幌や北海道釧路市などで少年野球教室や公演会を行うなど、北海道にもたびたびやって来ていました。
そして監督時代の1996年7月、新語・流行語大賞の年間大賞も取った「メークドラマ」
11.5ゲーム差をひっくり返して大逆転リーグ優勝。
あの始まりと、きっかけとなった試合がなんと、札幌の円山球場で行われていたんですよね。
それから、2002年、アテネオリンピックの出場を目指す野球日本代表の監督に就任しました。
初めてオールプロでチームを組むことになったときです。
その翌年2003年に出場をかけて札幌ドームで行われた、アジア野球選手権2003で優勝して、オリンピックの出場を決めたんですね。
その後も2007年には、毎年、北海道千歳市で開催されるゴルフのセガサミーカップの大会名誉会長にも就任をして、いろんなプレゼンターもやられて、北海道のスポーツにも貢献をされてきました。
満島てる子さん)2004年に脳梗塞でお倒れになったと思うんですけれど…リハビリの様子をドキュメンタリーとして放送されているのを昔見たことがあったのですが、通常リハビリと言う言葉ではイメージできないような、過酷にも見えるようなメニューを、自分でやっていらっしゃる様子が描かれていたんですよね。その様子を見て「これがプロなんだな」と思わせられました。その後、2020年の東京オリンピックの時に、聖火ランナーもご自身の足でお務めになったと思うんですけど、その様子からすごく希望を頂いたんですよね。人前に立つスターとしては、本当に不世出というか別格の方だったなと思います。
堀啓知キャスター)そうですね。
世代を超えて長嶋さんの記憶というのは、皆さんの中に永遠に残っていくのかなと思います。