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返還されたアイヌ民族の遺骨3体「遠くに追いやられ…悲しい旅だったと思う」110年以上前に研究目的でイギリスへ…持ち出した人物はアイヌに慕われた人道の医師だった

2025年09月27日(土) 09時00分 更新

 今から100年以上前、海外に持ち出された、アイヌ民族の遺骨が2025年4月、北海道に戻りました。研究の名のもと、遺骨を持ち出したのは、イギリスの人類学者。その人物は、無償でアイヌの人たちに医療を施し、信頼されていた医師でした。

◆《研究目的で持ち出されたアイヌ民族の遺骨…》
 遺骨が故郷に帰るのに、約110年の歳月がかかりました。

北海道アイヌ協会 大川勝理事長
「我々の同胞で先祖、やはり遺骨を日本に持ってきて、きちっと尊厳のある慰霊をしたい」



2025年4月、イギリスのエディンバラ大学から日本政府に、3体のアイヌ民族の遺骨が返還されました。エディンバラ大学によりますと、遺骨は北海道の釧路地域、浦河町、えりも町から持ち出され、1913年に大学に収蔵されたということです。

返還された遺骨は、慰霊の儀式のあと、白老町の慰霊施設に保管されました。

北海道の地に眠っていたアイヌの遺骨。イギリスに送ったのは、イギリス人の人類学者で医師の、ニール・ゴードン・マンロー氏でした。マンロー氏が遺骨を寄贈した理由について、エディンバラ大学は、おそらく研究目的だったとしています。



エディンバラ大学
「アイヌなどの民族集団から持ち出された遺骨は、解剖学や人類学の探究に用いられることが多く、頭蓋骨の形と大きさに基づいて、それらの民族が劣っていることを示すという、今では否定されている骨相学にも用いられた」

◆《悲しい旅だったと思う…110年以上ぶりに故郷へ》

 返還された3体のうちの1つのアイヌ女性の遺骨は、2025年8月、釧路のアイヌ協会に返還されました。

釧路アイヌ協会 桃井芳子会長
「長い間、遠くに追いやられたというか、悲しい旅だったと思うんですよね。それが、きょう戻って来たということで、私もホッとしたかな」



海外から返還された遺骨が、こうして地元に戻ったのは初めてです。慰霊の儀式が行われたあと、遺骨は納骨堂に収められました。

釧路アイヌ協会 桃井芳子会長
「ホッとしました。遺骨はいろんなところに残っていると思うので、ぜひ戻って来てもらいたい」

祭司 廣野洋さん
「悔しいというか、複雑な気持ち。長年、時間が経っているから、どういう言葉をかけていいのか…遺骨が誰かもわからないですし。非常に難しかった。国は謝罪するべき」



◆《“神様”のような存在…アイヌの人たちに慕われた医師》
 一方、遺骨を持ち出したマンロー氏は医師でもあり、“神様”のようだったと振り返るアイヌの人たちもいます。

北海道日高地方の平取町二風谷にある、旧マンロー邸。毎年6月に「マンロー先生を偲ぶ会」が開かれています。マンロー氏は自宅に診療所も構え、当時貧しかったアイヌの人たちを、無償で診療していました。マンロー氏が、イギリスの大学に遺骨を送ってから20年が経っていました。



現在、94歳の萱野れい子さんは、幼いころ、マンロー氏にやけどを診てもらったと振り返ります。

マンロー氏の治療を受けた萱野れい子さん(94)
「はさみのようなもので切って水を出して、そして包帯をしてもらって。クッキーを1つもらって…こんなに美味しいお菓子があるもんだなと思いながら、食べた記憶がある」



マンロー氏の妻・チヨさんが作った『マンロークッキー』の味は、いまも受け継がれています。当時、マンロー氏が、友人に送った手紙が残っています。そこには当時、アイヌの間で流行していた結核に、心を痛めていたことが綴られていました。



マンロー氏が友人に宛てた手紙(抜粋)
『この場所は、医療を受けるのには遠いので、和人及びアイヌの人に対し、少しばかりの医療奉仕をしてきました。二風谷での死亡率はひどいものです。アメリカとイギリスの死亡率は1万人あたり7人なのに比べて、二風谷では350人に7人です」

赤い屋根が目を引く、洋風のマンロー邸は、地元の子供たちにとって、遊び場でもありました。

マンロー氏の治療を受けた萱野れい子さん(94)
「マンロー先生は勉強しているし、別に誰も邪魔する人いないから(子供たちは)自由に遊ぶわけ。そこらじゅう走りまわって遊んだもんです」

『マンロー先生を偲ぶ会』運営委員長 貝澤耕一さん
「神様がいるならマンローさんだろうということは、祖母がよく言っていました。それだけ地域に貢献した、地域の人に慕われたということでしょうね」

◆《誰のための研究なのか…“人道の医師”と“遺骨持ち出し”》
 人類学者の顔をもつマンロー氏は、1913年にエディンバラ大学に遺骨を送る前から、発掘調査などのため、たびたび北海道を訪問していました。



マンロー氏が貝塚で発掘した『石鋸(いしのこぎり)』を所蔵する、釧路市立博物館。学芸員の城石梨奈さんは、遺骨が寄贈された経緯をこう推測します。

釧路市立博物館 城石梨奈さん
「その時代って、よく骨や資料を研究者同士で交換することもあったようです。だから誰かが掘った遺骨を、マンロー氏が受け取っていたのかもしれない。研究するにあたって“これはダメとかOKだとかっていう基準”は当時、現代と違っていたのかなとは思います」

マンロー氏は、二風谷でアイヌの生活用具を収集するなど、研究を続けながらもアイヌとともに暮らし、信頼を獲得しました。遺骨を持ち出す行為と、晩年の二風谷でのマンロー氏。

そこから学ぶべきことは、いったいどんなことなのでしょうか。

北海道大学アイヌ先住民研究センター 辻康夫教授
「研究者だけが、勝手に好きな研究をやって、一部の人たちに不利益を与える。これは当事者と研究者が、はっきり分かれてしまっているから起こることなんです。これを解決するには、当事者がちゃんと研究の中に入って来ること。そして、彼らが何を知りたいのかをちゃんと発言できるようにするということ、当事者の役に立つ研究をするっていうことです」

先住民族の権利回復が世界で進むいま、研究者の姿勢を見直すときが来ています。

◆《弔いと尊厳のために…アイヌ民族の遺骨返還問題》
堀啓知キャスター)
 医師として、アイヌの人たちと信頼関係を築いていたマンロー氏の思いを窺い知ることは、いまとなっては叶いませんが、返還に向けた動きは進んでいるんですか?

世永聖奈キャスター)
 これまでに80体を超えるアイヌ民族の遺骨が、海外から返還されています。しかし、どれだけの遺骨が持ち出されたままなのか、その実態は判っておらず、研究者による地道な調査に頼っているのが実情です。

アイヌ民族の遺骨研究にあたってきた日本考古学協会などの学会では、過去の遺骨収集を反省した上で、北海道アイヌ協会と研究倫理に関する話し合いを重ねているとのことです。

堀啓知キャスター)
一刻も早く、持ち出された遺骨が故郷の地へ戻れば…と願うばかりです。

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