消せない惨劇の記憶「人間の首が落ちたら…あんな状態に」朝鮮人労働者に向けられた刃 戦時下の北海道で進められた“強制労働” 犠牲者120人を悼む碑はなぜ封印された?
2025年09月28日(日) 09時00分 更新
戦時下、北海道の各地では厳しい監視のもと、過酷な労働を強いられる、いわゆる強制労働が進められ、朝鮮の人や日本人らの多くの命が失われました。
戦後、犠牲者の慰霊碑も建てられましたが、そうした動きが封じられたマチもありました。いったい何があったんでしょうか?
◇《雨竜ダムや鉄道建設などで約250人が命を落とす》
北海道の幌加内町朱鞠内の森に、厄を払い、幸を呼ぶための音色が響きます。朝鮮半島の伝統芸能『プンムル』です。
戦時下の強制労働の歴史を辿る『東アジア共同ワークショップ』が主催したワークショップ。日本人や韓国人ら70人ほどが参加しました。
戦時下、この地域では、過酷な労働の末、50人ほどの朝鮮人と、200人ほどの日本人が命を落としたとされています。
『笹の墓標強制労働博物館』矢嶋宰館長
「亡くなった後も、強制労働者たちはきちんと弔ってもらうことさえ、してもらえなかった」
幌加内町朱鞠内では、数千人が強制労働に動員されました。雨竜ダムの建設のほか、鉄道を開通させるため、昼夜働きづめの日々が強いられたのです。
東アジア共同ワークショップの代表を務める殿平善彦さん80歳。深川市にある寺の住職です。強制労働の犠牲者たちを弔い続け、40年以上にわたって、日韓の若者たちと遺骨を発掘し、遺族のもとに届けてきました。
東アジア共同ワークショップ代表 殿平善彦住職(80)
「いくつもの遺骨を、遺族へ届けることができたけれども、なお遺族の存在もわからぬまま、ここに置かれ続け、どこかにご遺族がいて、遺骨が帰って来るのを待っている人がいる」
強制労働の果てに命を落とし、埋葬された犠牲者。いまも故郷に戻ることなく、この地に残る遺骨があります。
◇《朝鮮人労働者に向けられた刃…消せない惨劇の記憶》
幌加内町で生まれ育った、岡田正直さん91歳。戦時中、地元の朱鞠内国民学校初等科に通っていました。
岡田正直さん(91)
「わが家はここだと思う、絶対ここだ、間違いない」
父親は中国に出征し、岡田さんは母親と実家で暮らしていました。家の隣には、強制労働に従事する人たちの宿があり、朝鮮の語や歌を教わる交流もありました。
そうした日常の中、当時7歳だった岡田さんは、自宅の2階から凄惨な光景を目の当たりにします。
岡田正直さん(91)
「自宅2階の窓から見ていたら(朝鮮人労働者2人が)捕まっていました。彼らは手を縛られている状態で、そばには刀を下げた人がいた。刀を持った2人が、私のほうを振り向いた瞬間、朝鮮人労働者の2人が逃げたら、刀を振り落として首をはねたんです。人間の首が落ちたら、あんな状態になるかと…人に言えないくらい怖かった」
「しばらくしたら、自宅の2階に刀を持った2人が、ダダダって上がって来て『お前、いまの見たのか?』と尋ねられたので“見ました”と答えると、『見た以上は生かしておれん』と言って、刀をあげたんですよ。そのとき、もう1人が『こんな子どもを殺してどうする?』と抑えてくれて、その人に『お前、今のことを忘れるか?』と告げられました」
あの2人は、絶望的な強制労働の日々から逃れようとして、拘束された人だったのではないのか。91歳になった岡田さんにとって、今も消せない記憶です。
◇《厳しい監視下の強制労働…封じられた加害の記憶》
幌加内町朱鞠内には、戦時下の過酷な歴史を伝える博物館があります。2024年9月に開館した『笹の墓標強制労働博物館』です。施設名には“強制労働”の文字が刻まれています。
笹の墓標強制労働博物館 矢嶋宰館長
「戦時下の加害性を問う歴史館、そういった歴史と向き合う博物館、記念館。日本全国、各地にいくら増えても構わないと考えている」
故郷から遠く離れた地で、熾烈を極めた強制労働。博物館の近くには、強制労働の犠牲者を悼む碑が建っています。しかし、本来あるべき場所は、幌加内町朱鞠内から、遠く離れた北海道の別の地でした。
日本最北の稚内市に近い、道北の猿払村。広大な牧場が広がっています。ここで終戦間際の旧・日本陸軍は『浅茅野飛行場』の建設を進めていました。
渡邊農場 渡邊祐世代表
「当時、浅茅野の農家の中心だった平らな土地を、戦時中に空港を作るとなって、立ち退きして、そこに強制労働の人たちを連れてきて空港を作った。対ロシア(旧ソ連)に向けてと聞いたことがある」
戦後、渡邊さんの祖父が移り住み、酪農を始めた地域では、戦時下、飛行場建設という過酷を極めた工事が進められました。乏しい食料事情や厳しい冬の気象条件の中、朝鮮人を含む、約120人の命が失われました。
◇《飛行場建設の強制労働…なぜ慰霊碑は封じられたのか》
水口孝一さん(90)
「この辺からずっと発掘した跡なんですよ」
20年ほど前、当時あった村営共同墓地で、39体の遺骨が見つかりました。飛行場建設の強制労働に動員された人たちの遺骨でした。当時、地区の自治会長だった水口孝一さんは、その時のことを、いまも鮮明に記憶しています。
水口孝一さん(90)
「ブルーシートをかけてあるが、掘った場所をそのままにして埋めなかった。発掘調査の時は地面を1メートル以上は掘っていた。地中には遺骨が重なって入っていました、1つの場所に」
2013年、猿払村では協議が重ねられ、犠牲者を悼む慰霊碑が、新たな村営の共同墓地に建立されました。ところが、除幕式の数日前、事態は一変します。
水口孝一さん(90)
「『村の方で許可したのか』とか、いろいろな事は言われたようです。当時の村長さんも『どうしようもないわ』って話になって、とりあえずストップしましょうとなった」
遺骨が発掘された2013年から、12年の時が流れました。現在、慰霊碑は、同じ強制労働の歴史を持つ、幌加内町朱鞠内の地にあります。当時、慰霊碑の建立をめぐって、弔いの動きを封じようという声が、猿払村に寄せられたというのです。
東アジア共同ワークショップ代表 殿平善彦さん(80)
「全国から電話で『なぜ村有の墓地にそんな碑を建てるのか?』『正式に許可をしたのか?』と何日間にもわたって、猿払村役場の電話が鳴り続けた…と聞いている。村民の安全が優先ですから…といって、村営の共同墓地に慰霊碑を設置する許可が取り消されて。慰霊碑は建てないでほしいと、村から要請を受けた」
『浅茅野飛行場』の建設現場で、強制労働の犠牲者となった人たち。『東アジア共同ワークショップ』代表で、僧侶の殿平善彦さんも、慰霊碑の建立に尽力した一人です。
東アジア共同ワークショップ代表 殿平善彦住職(80)
「忘れたいと思っている人たちもいるかもしれないけれど、むしろ忘れないでいることのほうが、私たちの社会の未来にとっても重要で意味がある」
暗い歴史であっても、決して背を向けない。その選択こそが、未来への道標になります。
◇《強制労働の歴史に背を向けず伝え続ける…加害の記憶を後世へ》
大竹彩加キャスター)
「強制労働」が進められた背景には、戦争開始で軍需が高まる中、働き世代の男性が、次々と徴兵され、極端な「働き手不足」に陥った状況がありました。
北海道の調査報告書によると、戦時下の北海道では、本人の意思にかかわらず、日本人のほか、およそ15万人の朝鮮人労働者が強制労働に動員されたとのことです。
堀啓知キャスター)
強制労働の犠牲者を弔い続けている殿平さんの言葉にも”忘れないことが、私たちの未来にとって重要だ”とありました。加害の歴史から目を背けることは、結果として平和を遠ざけてしまうのではないでしょうか。
過去の事実を見つめ、それを検証し、語り継いでいく…、その積み重ねが、同じ過ちを繰り返さない大きな力になると思います。