「直接話すのは、悲しかったのでは」 被爆体験を一切語らなかった父が文集や自分史として残した生々しい記録 被爆2世が新団体設立し語り継ぐ
2025年08月15日(金) 16時58分 更新
終戦から15日で80年です。
戦争を体験した人びとが少なくなる中、親の体験や願いを語り継いでいこうと、次の世代が決意を新たにしています。
市民団体
「平和について考えましょう」
戦争が終わって80年の、この日。
札幌駅前で配られたのは、戦時中の召集令状を模した「赤紙」です。
赤紙を手に取ることで平和の尊さを感じてもらおうと、市民団体の約60人が道行く人に手渡しました。
受け取った男性
「これが昔届いたら、(戦争へ)行かなければいけない。いつまでも平和な世界であってほしいと思います」
8歳の時に長崎で被爆した宮本須美子さん(87)も参加し、核兵器の悲惨さを訴えました。
長崎で被爆した宮本須美子さん
「広島・長崎を最後の被爆地に、二度と被爆者をつくらない」
戦後80年となり、被爆体験を語れる当事者は、いよいよ少なくなっています。
そんな中、親の体験や願いを後世につないでいこうと、活動している人たちがいます。
川去裕子さん(67)
「実家にあった被爆したコーヒー茶碗です。釉薬がとけて周りの土とくっついてしまっている、すごく熱かったんだろうなと分かる」
札幌の川去裕子さんもそのひとり。
父親の原田正俊さんは15歳のとき、広島で被爆しました。
川去裕子さん(67)
「(父が)直接原爆の体験を話したことは一回もない」
川去さんが父の体験を知ったのは、父が文集に寄せた手記や、ひそかに書き留めていた自分史からでした。
自分史には、原爆が投下された直後に家族を探していて目にした、生々しい惨状が記されていました。
川去さん(父)の自分史
「橋を渡っていくと、川の中にはいっぱい死体が浮かんでた」
「稲荷町の自宅に行ったら全部焼けてた」
川去裕子さん(67)
「妹の和江さんを探しにあちこち歩いた。『(8月)8日も9日も探したけど、見つからなかった』と書いている」
原爆が落ちた後に行方不明になった妹は、ようやく見つけたものの、8月12日に亡くなりました。
父はなぜ、自らの体験を娘に語らず、文集や自分史として残すことを選んだのでしょうか。
川去裕子さん(67)
「直接話すのは、悲しかったのでは。文章では残しているので(伝えたい)気持ちが強かったと思う」
被爆者たちの体験を語り継いでいこうと、川去さんは8年前、被爆2世と支援者らによる新たな団体(被爆二世プラスの会)を設立しました。
川去裕子さん(67)
「(原爆の被害に)「遭った者じゃないと分からん」と父は言っていた。本当にあったこととはかけ離れていることなのかもしれないけれども、事実の一部でも伝えることができるんじゃないか。伝えることができたら、それを受け取った人がそこから何かを感じ取って、また次の一歩に進んでいく、つながるという気持ちで活動している」
父が口に出せなかった秘めたる悲しみを、子や孫の世代へ。
川去さんたちはこれからも語り継いでいきます。