“飢え・寒さ・重労働”100歳の体験者と対話するロシアの女子大学生「なぜ日本人がここで亡くなったのか」80年後に向き合うシベリア抑留 #戦争の記憶
2025年08月20日(水) 18時46分 更新
太平洋戦争は、終わった後も様々な悲劇を生みましたが「シベリア抑留」もそのひとつです。
80年が経った今も、実態がわからない、このシベリア抑留を研究したいとロシアから札幌市にやってきた留学生を取材しました。
■「なぜ日本人がここで亡くなったのか」ロシア人学生が向き合うシベリア抑留
東京・永田町。
鈴木宗男 参院議員
「筆舌に尽くしがたい苦労があった」
小池晃 参院議員
「政府が、国会が手をこまねいているわけにはいかない」
シベリアなどで強制労働をさせられた元抑留者や支援者が、国会内で集会を開きました。
その中に、札幌で学ぶ、ロシア人留学生の姿がありました。
北海道大学文学院 ビコーニャ・アリナさん(24)
「シベリア抑留はまだ忘れられていない。そして沈黙の歴史にならなかったということです」
ビコーニャ・アリナさん。4月から北海道大学の大学院に通っています。
アリナさん
「抑留者の帰国後の生活はあまり明らかになっていない」
専門は「シベリア抑留」の研究。太平洋戦争の終結後、旧ソビエトによって、およそ60万人の日本兵や民間人が、極東からヨーロッパに設けられた、ラーゲリと呼ばれる=強制収容所に抑留。過酷な労働を強いられました。
アリナさん
「ナホトカ市出身なので、この地域は昔から日本との歴史的経済的、社会的な関係が深かった」
アリナさんが生まれ育ったのは、ロシア極東の港湾都市=ナホトカ。
冬でも凍らない港があり、物流の拠点として栄えました。
小樽市や京都の舞鶴市と姉妹都市で、日本にとっても身近なマチ。
そして、シベリア抑留の強制収容所や帰還船の出発地でもあります。
アリナさん
「元々の抑留者の墓地が建っていて、なぜ日本人がここにいたのか、なぜこの方がここで亡くなったのかという質問にどんどん答えを探っていってシベリア抑留の研究に至りました」
ウラジオストク極東連邦大学でも、シベリア抑留の歴史や体験者のトラウマなどを研究していたアリナさん。
「抑留体験者に直接話を聞きたい」留学先に選んだのが、札幌でした。
■シベリア抑留を体験した100歳との対話
神馬文男さん
「100歳だよ、100歳」
アリナさん
「100歳になりました?」
札幌に住む神馬文男さん。旧日本海軍の偵察兵として朝鮮半島で終戦を迎え、2年間シベリアに抑留されました。
神馬文男さん(99)
「僕らはね、毎回だまされる。嘘言われるのダモイ(帰国)だって。そして他のところに連れて行かれて仕事させられるわけさ」
帰国だと告げられ、着いたのは現在のパルチザンスクにあったラーゲリ。
マイナス30℃の寒さの中、森林伐採や石炭掘りなどの労働を強いられました。
そして、アリナさんの地元・ナホトカでは、帰国直前には、日本に共産主義を広める= 赤化教育のチェックが行われたのです。
神馬さん
「思想調査があるんだ。はっきり言えば、『共産主義万歳』『日本駄目』というようなことをしなければ『ダモイ、ニエット(帰国できない)』、スターリンの額があってね、スターリンの前で、スターリン万歳って、みんなで万歳やるのね」
アリナさん
「検査の結果に基づいて、ナホトカから改めてシベリアへ送られた人もいますか?」
神馬さん
「日本の船(帰還船)に乗ってから、ロシアのほうを見て『馬鹿野郎』と叫んだ日本人がいる。それは『ダモイニエット(帰国できない)』と」
アリナさん
「ソ連兵に捕まって…」
神馬さん
「そう戻された」
ロシアの大学で4年間、日本語を勉強したというアリナさん。
耳の遠い神馬さんのために、質問を紙に書き続けます。
アリナさん
「シベリア抑留者は主に日本に帰ったとき、日本の社会がだいぶ変わりましたね。神馬さんは日本に帰ったときそういう印象を受けましたか?」
神馬さん
「世の中が変わってこれはよかったな、僕はそう思ったんですね。戦争は命を奪う。命を奪った者が勝ちなんだ。とんでもないことだ」
1956年の日ソ共同宣言で、国交を回復した日本とロシア。
しかし、シベリア抑留の実態調査は進んでいません。
背景には、日ロ関係の悪化が横たわっています。
アリナさん
「今は日本とロシアのいろいろな政治的な問題で、この日ロ関係は盛んとは残念ながら言えないです。研究の分野もそうだし、亡くなったシベリア抑留者の遺骨の収集も中断になってしまいました」
■「遺骨収集はあと100年経っても終わらないでしょう」
再び「シベリア特措法15年」の集会です。
アリナさんは、シベリア抑留者の言葉に耳を傾けました。
シベリア抑留体験者 西倉勝さん(100)
「シベリア抑留の仲間は著しく減り、1000人以下になったともいわれています。私も先月100歳を越えました。遺骨収集もあと100年経っても、終わらないでしょう。亡くなった方々に本当に申し訳ないと思っております」
シベリア三重苦と呼ばれる「飢え」「寒さ」「重労働」で、5万5000人が命を落としました。
「日本に帰るぞ」(2019年の遺骨収集)
特措法では、抑留の実態調査や遺骨収集を日本政府が進めるとしていますが、これまでに帰還した遺骨は2万2000柱。
犠牲者の半分以下にとどまっています。
さらに、コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻で、2020年以降、遺骨の収集は進んでいません。
北海道大学文学院 ビコーニャ・アリナさんさん(24)
「ロシアと日本の協力がなければ、どうしても解決できない問題もあります。もちろん私は1人で現在の政治的な状況を変えることはできませんが、できるだけいわゆる草の根レベルで活動の協力をしたいと思います」
戦後80年。実際に何人が抑留され、何人が、どこで死亡したのか?
アリナさんが向き合う「シベリア抑留」。今も詳細は、わかっていません。
■戦争体験は国によって語られ方が違う
アリアさんの指導教官=北大の水溜真由美(みずたまり・まゆみ)教授は「戦争体験は国家の政治思想などの影響を受けやすく、国によって語られ方が違う。ロシアと日本、双方の記録や体験談を研究することは、新しい発見につながる」とアリアさんの研究意義を話しています。
「国同士」の結びつきが細い時こそ、アリナさんのような「草の根」の交流が大切になって来ると思います。