「赤い炎がうわーっと」「お母さんを探しに行かなきゃ!」原爆が投下された広島と長崎の惨状をどう未来へ伝えるのか…被爆者の壮絶な体験を元に札幌の高校生たちが挑んだ朗読劇
2025年06月06日(金) 15時15分 更新
戦後80年を迎え、あの悲劇の記憶をどうつないでいくかが、大きな課題となっています。原爆がもたらした惨状を、未来へ語り継ぐため、札幌の高校生たちが舞台に立ちました。
◇《原爆の壮絶な記憶…高校生が伝える朗読劇》
5月24日、札幌・中央区にある『かでる2・7』のステージで、高校生たちが、朗読劇を披露しました。
朗読劇(高校生)
「何かが光り、ものすごい音と爆風が押し寄せてきた!」
80年前の夏に投下された、2つの原子爆弾。あの日、何が起きたのか。被爆者たちの壮絶な体験を伝える朗読劇です。
朗読劇(高校生)
「放射能の恐ろしさは長く、長く続いているのです」
被爆者たちの悲痛な声を朗読劇で伝えたのは、札幌南高校の定時制に通う生徒たちです。
朗読劇をやらないかと声をかけたのは、社会科全般を教える野口隆先生(61)。取り組みは、去年の夏から始まりました。
札幌南高校の定時制は、夕方5時半から授業が始まり、9時近くまで続きます。週に2回、授業のあと、野口先生のもとに、朗読劇のメンバーが集まります。
札幌南高校(定時制)野口隆教諭(61)
「どんな言葉が一番しっくり来る?ノーモア ウォーじゃなくて、ノーモア ウォー!という呼びかけで…」
生徒たちにとって、自分たちの親の世代さえ知らない戦争は、いまや、遠い歴史の出来事なのかもしれません。それでも朗読劇に向けて、強い意志が芽生えていました。
札幌南高校(定時制2年) 前川玲奈さん(22)
「広島、長崎の戦争のことを何か伝えていかなきゃいけないのかな、しっかり目を向けなきゃいけないのかなっていうのは、すごく感じるようになった」
1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾によって、その年の12月末まで約14万人が命を奪われました。そして原子爆弾は8月9日、長崎にも投下され、7万3千人を超える犠牲者を出したのです。
今回の朗読劇は、北海道に移り住んだ被爆者たちの証言をもとに、台本が作られました。
札幌南高(定時制)野口隆教諭(61)
「どこを削って、どこを残して、どこを強調したいか、あさってまでに考えてきてください」
高校生
「木曜日?わぁ…木曜日かぁ」
朗読の進め方や練習だけでなく、戦争や平和について、互いに語り合い、考える時間が重ねられていきました。
◇《遠くなる原爆の惨状…被爆者が語る核廃絶の願い》
去年、ノーベル平和賞に選ばれた日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)。被爆者の立場から、核廃絶を訴え続けてきました。
日本原水爆被害者団体協議会 田中熙巳(てるみ)代表委員
「一発の原子爆弾は、私の身内5人を無残な姿に変え、一挙に命を奪いました」
去年12月、ノルウェーの首都オスロで行われたノーベル賞の授賞式。日本被団協の田中熙巳(てるみ)さんは壇上で、自身の被爆体験と核廃絶に向けた強い思いを語りました。
田中さんは13歳の時に長崎で、爆心地から約3キロ離れた自宅に居て被爆。5人の親族を失っています。
日本原水爆被害者団体協議会 田中熙巳(てるみ)代表委員
「核兵器は、一発たりとも持ってはいけない…というのが、原爆被害者の心からの願い」
ただ、被爆者の願いの中、今もなお世界には、1万2千発もの核弾頭が存在しているとされます。
戦後80年となり、被爆者たちが高齢化し、壮絶な体験を知る世代が減っていく中、どう原爆の記憶を未来へ繋いでいくのか…それは大きな課題です。
◇《原爆投下から80年となり、被爆者団体の解散も―》
札幌・白石区にある北海道ノーモアヒバクシャ会館―。館内に展示されているのは、凄まじい爆風や熱線、そして放射能を浴び、犠牲となった人たちの遺品です。
北海道内に暮らす被爆者や遺族から提供を受け、原爆の惨状を伝え続けています。ところが今年、大きな節目を迎えました。
北海道ノーモアヒバクシャ会館の運営や被爆体験の“語り部”活動など、核廃絶に取り組んできた『北海道被爆者協会』が、今年3月に解散したのです。
北海道被爆者協会 廣田凱則(よしのり)会長(87・長崎で被爆)
「最後の被爆者協会の理事会でございますけれども…長い間ご苦労様でございました」
被爆者の数が減り、高齢化も進み、活動の継続が困難となったのです。5月25日、最後の集まりが行われました。
新たに『北海道被爆者連絡センター』が立ち上げられ、会館の運営などの活動は当面、続けられますが、今後の不安は拭えません。
北海道被爆者連絡センター 北明邦雄代表理事
「運営を担う被爆2世も、みんな60歳を超えている…つい最近まで入院した人いう状況。被爆2世も決して若くはない」
◇《原爆投下の日に何が…被爆者の証言で綴る朗読劇》
ノーベル平和賞の授賞式で、世界に向けて核廃絶を訴えた、田中熙巳(てるみ)さんは今年、93歳となりました。人生が続く限り、メッセージを伝え続けるため、全国各地を巡っています。札幌で講演会が5月24日に開催されました。
日本原水爆被害者団体協議会 田中熙巳代表委員(93)
「被爆者はがんばってきたけれど、年をとって、やはり居なくなる。しかし、若い人たちが今まで被爆者たちがやって、作り上げてきたものを引き継ごうという動きがちゃんと出てきている」
原爆によって強いられた過酷な体験。時が経っても、被爆者の記憶から、決して消えることはありません。そして、田中さんの講演後、500人を超す観客を前に、あの高校生たちの朗読劇が始まりました。
札幌南高校(定時制)の朗読劇
「わたしは志願兵として兵舎にいました」「水を求めたであろう人々が、重なり合って死んでいました…」
原爆投下の日、何があったのか―。札幌南高校の定時制に通う高校生たちが、当時7歳から16歳だった6人の証言を元に、ヒロシマ篇とナガサキ編と題して、この日、朗読劇の舞台に立ちました。
札幌南高校(定時制)の朗読劇
・「体を包み込むような赤い炎が、払いのけようとする間もなく、うわーっと来ました。一瞬でした…家の天井も屋根も吹き飛び、壁は抜け、ガラス窓は枠ごと吹き飛び…それはそれは、もの凄い破壊力でした」(広島で被爆した当時16歳の女性の証言より)
・「外に出て見た周囲は、地獄だった…人々は全身を火傷と裂傷に覆われ、焼けただれて、土色に変わった皮膚をぼろ布のようにぶら下げながら、助けを求めて、よろよろと歩いている」(広島で被爆した当時16歳の男性の証言より)
・「あの日は、ひとりで家の中にいました。薄明りの先に見えたのは、倒れたタンスや仏壇でした。私はその隙間にいたため、助かったのです。でもお母さんは、街中の勤労奉仕に行ったっきり…お母さんを探しに行かなきゃ!通りに出ると、指先に皮膚を垂らした火傷の人が、まるで絵に描いた幽霊のように歩いてきました」(広島で被爆した当時12歳の女性の証言より)
・「いきなり爆風と熱線が押し寄せた。そして黒い雨が降って来た。すべてが一瞬に吹き飛ばされて、燃え上がった…いつものように学校にいたら、みんな死んでいた」(長崎で被爆した当時7歳の男性の証言より)
客席で観ていた田中熙巳(てるみ)さんには、どう届いたのでしょうか。
日本原水爆被害者団体協議会 田中熙巳代表委員(93)
「もう朗読劇そのものもね、やっぱり皆さん、いろいろな人たちが聞いてもらって、若い人たちが中心になった運動を作ってほしいというのは、私たちの願いです」
札幌南高校(定時制2年) 前川玲奈さん(22)
「戦争の本当のことを私たちが代読して、語らせてもらうことは、結構、責任感っているのは、すごくあるなっていうのを感じていて、私たちが何かできることを探すっていう部分はすごく大きいことなのかなって…」
原爆の記憶を未来につないでいく、そのバトンは若者たちに託されようとしています。
世永聖奈キャスター)
全国で被爆者手帳を所持している人は、1980年の約37万2000人をピークに徐々に減少していて、最新の調査では、2024年度には10万人を割ると見込まれています。
また今回、取材した札幌白石区にある『北海道ノーモアヒバクシャ会館』は、後継団体の”北海道被爆者連絡センター”が当面、運営していくことになり、日曜から火曜までの週3日、一般公開を継続しています。
堀内大輝キャスター)
これまでは戦争を知る世代に、“悲劇の語り部”としての役割を託してきたところもありますが、”戦争の悲劇”を教訓として、二度と繰り返さないために、自分たちの世代に何が出来るのか…。これまで以上に、しっかり向き合う必要があります。