3月5日放送

 「ほっかいどう元気びと」は、2011年4月から始まった番組だ。第一回目のゲストとインタビューする数日前に東日本大震災が発生。直接の被害を受けない土地に暮らしているとはいえ、これまで経験したことのない災害のショックは戦後生まれの日本人として間違いなく最大のものだった。うろたえながらも、とにかく平常心で放送に携わりましょうと番組関係者全員で共通認識を確認し、番組も予定通り4月にスタートしたのだった。
 以来6年が経つが、今振り返っても、私自身、あの震災の前と後では心の内側の何かが確実に変わったと実感している。丁寧に言葉にしてみれば「儚いものなのだと再確認させられた世界でほんとうに大切なものは一体何なのか」ということへの思い。そして、どう言えばいいのか・・・「意味」と「役割」があぶり出されたような、そんな感覚。「何かを伝える意味と役割」「言葉が果たす意味と役割」「人が生きる意味と役割」・・・そういうものに急激にピントが合ったような内的変化があったような気がしている。
 それらに急激に取り組もうと焦らずに、答を性急に出そうと気負わずにひとつひとつを丁寧に発信していきたいとの思いでこの番組を続けている。何一つ正解は見えていないが、続けることで何らかの気づきを共有していくことに意味があるし、またそれが発信の役割だというのは自分の中で確かになっていることだ。
 そして、そんなふうにひとつの分水嶺を超えてゆくような時期にスタートをした番組として、3月には震災にまつわる取り組みをしている人にお話を伺おうと番組に関わる皆で決めている。丸6年になる今年は釧路で支援活動を継続させている人。その思いを伺った。

木嶋秀康さん 釧路の「喫茶BLOS」のオーナーである木嶋秀康さん 55歳。東日本大震災の直後から何かをしなくてはとチャリティーライブを計画し、入場料として集めた募金を被災地支援のために全額寄付。その取り組みを6年経つ今でも継続させている。現在の仕組みは、その金額を全て市民団体「災害支援くしろネットワーク」に託し、その「災害支援くしろネットワーク」は現地に高校生ボランティアなどを派遣して瓦礫の撤去作業やお年寄りの話し相手などの役目を果たしているとのこと。何よりも募金金額をつまびらかにし透明性に心を砕き、そういう信頼関係の上に連携が成り立っているのだと活動の要の信条を語る。
 そもそも、その支援活動を突き動かされるように始めたのは、未曾有のあの災害がひとごととは思えなかったからという。大きな人的被害は無かったものの釧路にも津波が押し寄せ、釧路川界隈で警戒のサイレンが鳴り続けるのを聞き不安な夜を過ごしたということや、東北の津波の映像をテレビで見て愕然としたことも大きいという。そして、父方の故郷が福島県二本松だということ。どれもが全くひとごととは思えなかったということだ。そして、何かやらなければいけないと始めた音楽を通しての支援活動。今尚なぜ続けているのか自分でも分からないけれど、始めたのだから続けるしかない、続けないと意味がないと思っていると話す。
 あの東日本大震災を境に自分自身の何が変わったのか、支援活動を通じてどんな心境の変化があったのか・・・という質問には、「自然災害に対する感覚が敏感になり、その後の熊本地震や十勝の台風被害などに関してもいてもたってもいられなった。それだけ未曾有の震災だったのだと感じます」と、2011年3月11日を境に人の心の痛みへの感受性が強くなったというその感覚を丁寧に言葉にしてくれた。

木嶋秀康さん 収録後のやり取りの中でもさらに自分自身の根本にあるものをいくつか語ってくれたが、“人のために何かをしたい”という突き上げられるような原動力は、母親譲りなのかもしれないと紐解いてくれる。10年程前に亡くなった木嶋さんの母親はカウンセラーという仕事を通して慈善活動にも熱心だったという。幼い木嶋さんも一緒に街頭募金などに立つ中で、母親が口癖のように言っていたのが「ボランティアは無償の愛」という言葉。木嶋さんも東日本大震災以前から音楽を携えてチャリティーイベントや施設訪問を始めていたのだそうだが、いつでもその言葉が心の奥深くにあったそう。預かった募金の全額を寄付するというこだわりは母親の思いなのかもしれないと静かに根っこの思いが言葉になってゆく。
 今回お話を伺って、ふと、2月19日放送の日本茶専門店「玉翆園」の玉木さんが仕事について語った「誰もが未来に繋ぐ何かをしなくてはならないと思う」という言葉を思い出した。仕事の精神もボランティアの精神も大切なことは同じだ。「自分の立場で何が出来るだろうかと考える」ということ。被災地支援のための旗振り役のひとりである木嶋さんのお話から、釧路という地域でいろいろな年代のいろいろな人達がそれぞれ出来ることを担いながら活動を繋げてきたのだということが伝わってきたのだった。

 被災地の福島、宮城、岩手の海岸線を車で走ると、何年経ってもひっきりなしに大型トラックが行き交っていることに驚く。福島を訪れた2014年の秋、全線自由通行が可能になった国道6号線を往くと、人が住めなくなった地域に行き来するほとんどはダンプカーやブルドーザーなどの工事関係の車。窓を開けないように、車の外に降りないようにという規制に緊張しながら北へ進む中、砂ぼこりが舞う道路の両側、人っ子ひとりいない一面の田んぼ(・・だったところ)を占領するようにはびこる黄色いセイタカアワダチソウが目に飛び込んでくる。帰れない人の思いがその異様な光景の中に残っているのを感じ、胸が痛くなった。
 宮城から岩手の海岸線を走ったのは2016年の秋。もうすぐ丸6年を迎えるにもかかわらずあちこちの工事箇所にトラックの列。仮設住宅や仮設店舗もいまだ多く残る一方で盛り土途中の高台があちこちに広がっている。陸前高田市に入り、作業車の土煙の向こうにすっくと立つ一本松を目にした途端に涙がこぼれた。あの一本松を残す残さないでは賛否両論あったが、あそこにああやって“いてくれて”良かったとその瞬間思う。思い出さなくてはならないことはやはり思い出さなくてはならないと思うから。
 こんな感傷・・・現地の人からしたらたまに来て感傷もないものだと思うかもしれないと気持ちが萎えそうにもなるが、でも、こうやって震災を思い出したり、訪れたり、歩いてみたり、どこかに入ってその土地のごはんを食べるだけでもいいのではと、この頃では思うようになった。何らかの活動の募金を送り続けることも含めて、そうやって、「忘れてないよ」というメッセージを送りながらそれぞれの地で“持ち場を守る”ことしか出来ないのだ、と。

 それにしても、東日本大震災から6年。人の世の儚さを突きつけられるという経験を共有し、世の中はもっと感受性の柔らかいものになっていくのだろう、痛みの分かる世界になっていくのだろうと思いながら1年目2年目と過ごしてきたが、このところの世界はまさかの逆バネが働いたかのような「不寛容」さの空気に満ちてしまっている。痛みの分かる世界どころか、過激な言葉、人を人とも思わないような言葉、汚い言葉を発した方がメディアに取り上げられるとばかりに、心がザワザワする大きな声ばかりが飛び交うようになりつつある。なんでこんな世の中になったかなぁと気落ちしそうになることも多いが、いや、そうではないのだ。そうではない人達も大勢いる。ひとりひとりと話をすると、どうにかしたいと思っている心ある人達の多いことに気づかされる。優しくて、真っ当で、道理を踏まえて、何とかしたいと思っている人達。むしろそういう人達のほうが多いのだ。・・・デフォルメされた一過性的なものに翻弄されていると、大事なものを見失う。
 大きな声や強い声にかき消されそうな小さな声、弱い声、優しい声、大切なことを言っている声・・・そういうものをこれからも丁寧にラジオから届けていきたいと思う。
 震災から7度目の春を迎えようとしているこの季節に、釧路で“突き動かされるように”活動を続ける木嶋さんと話をしていて、改めてそう感じた。

(インタビュー後記 村井裕子)

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