12月11日放送

 「同い年」というキーワードは、人と人の垣根を一気に取り払ってくれる、とても有効且つ心躍るパスポートだ。
 今回のゲスト、北海学園大学法学部長の樽見弘紀さんは、私と生まれ年は1年違うが学年が一緒ということがわかり、お会いして早々、同時代の「懐かし話」に花が咲き、楽しいひとときだった。
 同じ世代というのは、きっと時代の風景や匂い、音なども同じものを共有しているということだから、いやが上にも共通点を探したくなる。
 これは私が独自で確信していることだが、この昭和33年、34年生まれというのは、ほとんど例外なく「テレビっ子」である。それもそんじょそこらの、ではない。「草創期テレビっ子」である。何せ、物心ついた頃が日本のテレビ草創期。それも、ほどなくその魔法の箱は「白黒」から「総天然色(カラー)」に変わるのである。これが衝撃でなくて、何であろう。感受性が育まれている最中の柔らかい脳と視覚に、あのテレビという箱から、人が泣いたり笑ったり、マイクというものを持ってにこにこと茶の間に話しかけてくるのである。影響が無いはずがない。
 鉄腕アトムが動き回り喋るのを観て、名犬ラッシーがアメリカの大地を駆けるのを観て、「てなもんや三度笠」の芸人達が人を楽しませようと目一杯動き回っているのを観て、私もあの箱の中に入って仕事をしてみたいと、じわじわ植え付けられて来たような気がする。

 きっと、その時代、同い年の「樽見少年」もそうだったのではないか。
 今は北海学園大学で教鞭をとる樽見さんだが、若い頃は演劇に興味を持ち、脚本などを書くうちに、大学在学中から東京のテレビ局で放送作家の仕事を任されるようになる。
 あのNHKの超人気番組だった「クイズ面白ゼミナール」や、TBSの「巨泉のクイズダービー」がそう。樽見さんが「クイズダービー」の台本作家のひとりだった頃、私はHBCの局アナのひとりとして出演したことがあり、「同じ空気を吸っていたかもしれないですね」と、対談が始まる前のお互いの緊張が一気に溶けた。
 バブル期真っ只中に放送に関わり、その後樽見さんは30歳直前でテレビの世界から脱出しアメリカへ留学。「なぜ?」と伺うと、「自分の中の引き出しが空っぽになる恐怖があって」と一言。なるほど。私もその頃、放送への理想と現実のギャップにもがき、逃避行を試みたことがある。といっても、局から貰った夏休み、北海道を脱出して海辺のホテルにひとり滞在し、文章を書いたり写真を撮ったりしながら自分と向き合いあれこれ考える時間を過ごして、律儀に1週間で帰ってきただけだったが。しかも国内、湘南。

樽見弘紀さん 樽見さんはニューヨークの大学で、NPO(非営利組織)論を学び、帰国後、放送の仕事と大学院を掛け持ちして博士課程を修了。転機は1995年の阪神淡路大震災。これがきっかけでNPO活動の意識も高まり、1999年に北海学園大学にも政治学科が新設され、白羽の矢が立った樽見さんは札幌という新天地で教壇に立つことを選択する。
 くしくも同じこの頃、私も第2のスタートを切っている。長年勤めたHBCを辞め、フリーランスとして始動。その後、培ったものを教える機会に恵まれ、話し方やコミュニケーション、朗読など自己表現の講座を各地で担当するようになって、今がある。
 並び称するのはおこがましいが、それぞれの中にあるのは、共に、「伝える」という共通項。そうなのだ、よりよい影響のために、何かを発信していきたいという要素が、「テレビっ子」の内にたぎるエネルギーなのだ。

樽見弘紀さん 樽見さんが今年度から始めた「法学部カフェ」と時を同じくして、私は久しぶりのラジオ担当番組「ほっかいどう元気びと」がスタート。曲がりなりにも大事に備えてきた「引き出し」を活かし、外に開く作業だ。
 50代、体験してきたことで無駄なものはない。その上で今だからこそ出来ることがある・・・そんな実感で仕事をしているのはきっと同じはず。

 そして、もうひとつ共通ワードがあった。「回遊魚的人生」。
 泳ぎ続けるカツオやマグロに似て、動きを止めてしまうと生きている実感がないというそれだ。
 「沢山動いて、新しい水を得た時って確かに大変だけど、その分自分でも知らなかったパワーみたいなものが沸くんですよね」
 だから、ずっと泳ぎ続けてきた。そしてたぶん、これからも。
 全くもって同感。まあ、これは、同年代の共通項・・というより、単なる「性分」かもしれないが。

(インタビュー後記 村井裕子)

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