11月20日放送

 北海道、十勝。私にとって札幌に次いでなぜか縁のある土地だ。
 親戚ひとりいるわけでもない北海道の札幌にアナウンサーとして就職し、新人時代に数年間転勤で赴任したのが、十勝の帯広。
 この時間が、私にとって北海道を知るかけがえのない経験だった。
 日々のラジオ・テレビの放送の他に、この土地では週末ともなれば広い管内のどこかで味覚を楽しむお祭りが開催され、私たち放送スタッフは、お祭り会場での「公開録音」のためにせっせと駆り出される。牛の丸焼きだ、鮭のちゃんちゃん焼きだ、ワインにじゃがいも、毛ガニに焼き肉・・・収穫の秋はまさしく各地で競うように旨いものが土地の人たちの笑顔と共に胃袋に納められる。そのスケールの大きさに、本州育ちの私は北海道を実感し、札幌へ帰ってからもいつもイメージの中に大平原を持つようになった。
 ご縁再び、5年前からは毎月2度帯広へ通い、「話し方」や「朗読」講座の担当をさせていただいている。帯広のみならず、足寄や豊頃、池田といった遠くからも足を運んでくださる熱心な受講生に支えられている。一次産業の方も少なくないのがここの土地柄。これからは農家もきちんと説得力を持った説明能力が必要だからと受講する畑作農家の若い後継者や、東京から移り住んで酪農を営む女性など、皆、ポジティブで、精神性深く、未来を真っ直ぐ見据えるその姿に、こちらもいい刺激をいただくこともしばしばだ。

近江正隆さん そんなふうに、私が十勝と何らかの細い糸で繋がっているとしたら、今回のゲスト近江正隆さんとこの土地の縁は、さらに太いロープのようなものでしっかりと繋がっているに違いない。
 近江さんは、自然の中で仕事をしたいとの思いで、19歳の頃に東京から十勝へ。東京でも名高い進学校の出身だが、「毎日満員電車に揺られて、都会の会社へ通勤することを考えたら息が詰まるような思い」になり、十勝の酪農の実習生として来道。その後、浦幌で漁師としての人生を歩み、第一次産業の酸いも甘いも噛みしめた後、地域プロデューサーとして浦幌をはじめとする十勝の良さを発信。「作る人」である農山漁村と、「食べる人」である都市を繋ぐための活動を続けている。
 日本は戦後、産業を活性化させるために東京一極集中で経済を発展させてきたが、都会にいろいろなものを集中させる時代はすでに終わりを迎え、それを多くの人が今回の震災でも気づいたはず、と近江さんは言う。東京や大阪といった都会の、特に若い人たちに、命に繋がる食を育んでいる土地をもっと知って貰い、相互に支え合うという信頼関係を作っていきたいのだ、と。
 東京で生まれ、育ちながら、北海道へ飛んできた植物の綿毛が、しっかり根を張り、芽吹き、その双方の土地の未来にとっての「実」をつける活動に精力的に取り組んでいるのだ。

近江正隆さん ターニングポイントは、漁師時代、九死に一生を得た転覆事故がきっかけだったそうだ。あわや命を失うアクシデントと引き替えに手の中にあったものは、海の仲間に助けられた一生の宝ものの「恩」。
 その時、近江さんは思った。「自分は、自分のために、『自分が自分が』でこれまでやってきた」と。
 そうして、いただいた命を振り返った時に気づいた。「今度は『みんなで』という仕事をしていくべきではないか」と。
 自分を育んでくれた「地域」へ何か返したいという思いがわきあがってきて、今の「地域コーディネイト」という仕事が、近江さんの折り返し人生の役割になったのだそうだ。
 近江さんは、いろいろなことを経験しながら、たえず、「この次」の為に何をしたらいいかを考えている人だ。

 考えて、考えて、考え抜くと、思いが「言語化」される。
 思いが言語化されると、自分が何をすべきなのかが、心の中の広大な海の波間から、すうっと、浮き上がってくることがある。
 浮き上がってきた「すべきこと」をどう実行に移すかを、また考える。
 より高く、より遠くへ前進するために、何度も通らなくてはいけない「考える」作業はけして楽ではない。だが、だが、この「自分の頭で考える作業」を省いては、やはり前へは進めないのだ。
 人はもちろん、そう、国の針路もしかり。
 試行錯誤でこれまでの自分の道を切り開き、さらに未知の方向を切り開こうとしている近江さんの言葉のひとつひとつを聴いていて、そんなことを感じたインタビューだった。

(インタビュー後記 村井裕子)

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